(3)封印とクリスタル
ムーンは、拾うともなく拾った小石を玩んでいた。…放る。
── ぱしゃん。
水が跳ねた。水面に波紋が広がり、石は鮮やかに青い水底へ消えてゆく。
無造作に小石を拾い、また投げる。二度ぱしゃん、と水を跳ね上げ、
小石は泉へ消え入った。── 三度拾って、投げる。
「……いい加減にしてよ、気になるでしょお!?」
アリスがいらいらと振り返る。
「手持ち無沙汰なもんで」ムーンは悪びれる様子もなく言った。
「お前こそ、疲れてる割には元気じゃん」 ── 彼は泉を指し示した。
透明な青色だ。小石を投げ入れると、水面が小石に触れたところから
きらきらと光を発するのだった。
他の光を移しているのではない。何故ならここには一条の光も届いておらず、
彼らは先程明かりを無くしていたから。やみくもに走っていたのだが、
無意識に少しでも明るい方へ来てしまったのだろう。
明るさの源は言わずもがな、この泉だった。何もしなくとも、
淡く光っているように見える。
暗闇を背景に、零れる星屑。…さしずめ、小さな天体ショーといったところか。
「綺麗」不機嫌な顔はどこへやら、アリスは目を見張る。
「何が光ってるのかしら」
キャンディがそっと近づき、言った。
「光ゴケか…プランクトンかな。何にしても、気安く触らない方がいい。
毒水かもしれないし…万が一、ね」
「…キャンディ、さっきので怖じ気づいちゃったんだろ?」
「あんなのに遭った後なんだ、慎重にもなるよ。ムーンこそ、少し気をつけろ」
「そうやって、あんまり構えてもどうかと思うね〜…俺、のど渇いちゃった」
とうに空になった水袋を逆さにして振ってみせると、
彼は泉の水をすくおうとした。そこへキャンディが慌てて止めに入る。
「わかったよ!けど、まず調べてみよう。
いきなり飲むのは、いくらなんでも無鉄砲すぎる」
そうは言ったが、自身も喉の渇きを覚えていた。
彼は泉をじっと見つめ、匂いをかいだ。
嫌な臭いはしなかった。紛れもない水の匂いがする。
次に、鞄から白布を取り出した。
先端を浸してみる。…色は付かない。
濁ってはいない。ましてや濡れた白布は青くもなく、煌めいたりもしなかった。
── 水は澄んでるようだけど…中で何が光ってるんだろう。
不思議だったが、彼はひとまず考えるのをやめにした。
続いて取り出したのは銀製のナイフだ。銀は毒に反応する。
しかし、これを浸しても変化はない。
苔が生えていないかと縁を削ってみたが、
採れたのは洞窟を形作るのと同じ岩の…細かく削れたものだった。
拭き取ると、白布の上で乾いてざらつく。
…ナイフを確かめると、刃こぼれしてしまったらしかった。
「…だいじょうぶ」
ふいにポポが、目を閉じたままで言った。
彼の声は…疲れているのか、眠りかけているのか、どこかふわふわとしていた。
「優しい精霊が沢山いる…純度の高い水なんだよ、きっと」
そう言われたキャンディは、とうとう自らの手を泉へ入れた。
水をすくいあげ、そっと口をつける。心地よい冷たさが、喉を下っていく。
水は清らかで甘く、穏やかに渇きを癒してくれた。
と同時に、不思議と元気になれた。
身体の中に溜まって澱んだ重いものが、すうっと消えていく感覚だ。
満足げに息をついて、キャンディは兄妹を振り返った。
不安と好奇の目で成り行きを見守っていた弟と妹が、
喜びと安堵の笑顔を見せる。
「な、大丈夫だったろ?」
ムーンは得意気に言った。早速水を飲もうと、革手袋を外し、片手を入れた。
喉が潤えば、次は汚れた傷口が気になる。
怪我をした片方を、手首の上辺りまでたっぷり水に浸けて洗いながら ──
「!?」彼は突然、火傷でもしたように手を引っ込めた。
「もう、冷たいじゃない…何?」
「どうした?」
「…あ、あれ?」どぎまぎしながら、何度も怪我を確かめる。
「き、傷が…さっきゴブリンのナイフに掠ったやつが…無くなってんだけど」
「嘘ぉ!」
…確かだった。
痛みはいつの間にか消え、一文字に走った傷が、影も形も無かった。
残ったのは、手袋の切れ目だけである。
「治ったっていうのかよ?」
彼は何度も手袋を着けたり外したりした。…と。
「…『奇跡の水』?」
ぽつりとキャンディが言った。心ここにあらずといった表情で。
「…何だそれ」
「…世界を支える、四つのクリスタルの在る場所に湧き出す、
神秘のちからを秘めた水さ。全ての生命の源になるクリスタルの…だから、
どんなに大きな病気や怪我も治すって言われてる。
ただの作り話だと思っていたのに……」
けれど、今目の前で起こったことは、誰も否定できなかった。
みんなで頬をつねってみても、ちゃんと痛い。…夢じゃない。
何よりの証拠は、ぐったりと疲労していたポポが…泉の水を口にした途端、
元気になってしまったことだった。
本人曰く、何だかすっきりさっぱり、身体まで軽くなったとのこと。
「…だけど、あとで何かあったりしないよね?」
「心配すんな。…って、お前が言ってたんじゃねーか!
…ま、そん時はそん時で」
「えぇ!?」
「……。お前、本っっ当にさっき寝てたのか?」
そんな会話を交わしながらも ── 元気になった四人は、
今度は分かれていた道のまだ行っていない方を当たってみることにした。
幸い、魔物達と はち合わせすることもなかった。
ただ、明かりを失ってしまった彼らは、
壁づたいに足下を気遣いながら歩かなければならなかった。
それは酷く困難で、心細いことだったが…それでも。
奇跡の泉があったということは、近くにクリスタルの祭壇があるということ。
…そうとも、そうに違いない!
大発見の予感に胸が弾み、自然と足取りは強く、速くなった。
進んでいくうちに、ごつごつした天然洞窟が人工のそれへと変わる。
比較的平らになった通路には、見覚えがあった。
かつての神殿の名残に違いない。
クリスタルの祭壇が近い ── 予感は、確信へと変わっていった。
瓦礫に半ば埋もれた上り階段を見つけたのは、それから少ししてからのこと
だった。――迷わず、登る。
すると今度は、頑丈そうな石の大扉が待ちかまえている。
何故かそれだけ、欠けることも、歪むこともなく。
扉に刻まれているのは、複雑な紋様と、
吹きつける風に祈りを捧げる人のレリーフだ。
こちらにも、ひびひとつ入っていない。
それを改めて目にすると、まだ大丈夫なんだという気がした。
── まだ、風は止んでいない。
先頭に居たムーンが、幾らか緊張した面もちで振り返った。
4人は頷き合い、ムーンがその扉を押す。
ご、ごぉん…と音を立て、扉は重々しく開いた。
まるで、勿体ぶっているような開き方だった。
そして、『長老、あるいは風の司祭の許可なくば、決して潜ってはならぬ』
── その扉を、少年少女は通り抜けた。
ムーンは口笛を吹きながら。
ポポはぎゅっと目を閉じ、水にでも飛び込むかのように。
アリスは入口でスカートの裾を摘んで、おしゃまな会釈をし、
キャンディは儀礼通りに定められた仕草のあと敬礼をする。
ぱあっ、と目の前が開け、眩しい光が一斉に飛び込んできて、弾けた。
「う、わあ…!」
四人の誰もが言葉を失い、ただただ唖然と立ち尽くした。
そこは透明な空間だった。
限りなく澄んだ、清い空間だった。
あまりに透き通っていて汚れなく、その場に居る人間が思わず
気後れしてしまうほどに。
目に飛び込んでくる、純白と透明。
光が波になって押し寄せる。
記憶にある『風』の祭壇は、はたしてこれほどだったろうか。
壁を規則的に飾るのは風を象徴した数多の壁画、
そのいずれも白と透明を基調に彫られている。
『風』の恵みと生命のすばらしさを謳い、長い長い時を在り続けてきたのだ。
床と柱は総大理石、台座も装飾を施されたそれ。
側面にはさり気ない意匠と共に翡翠が飾られている。
そして、台座の中心で淡い輝きを放っているものこそは。
「…風の、クリスタル……!」
キャンディが言葉を紡いだ。…畏怖と歓喜のあまり喉に絡まった声で。
四人の表情が、みるみる喜びに溢れていく。
「…凄い……凄い、すごい、すごーいっ!!」
「やったあーっ!!」
手を取り合い、ぴょんぴょん飛び跳ねて喜ぶポポとアリス。
「よっしゃあ!!」ムーンは拳を固め、
大股で部屋中央の祭壇へ向かっていくのだった。「俺が一番乗りィ!」
「あっ、ずるーい!!」
慌てて祭壇に殺到しようとした弟、妹たちを、
「待て!」
しかしキャンディの鋭い声が制した。
「…感じないか?誰か…何か、そこに居る」
と。クリスタルが放っていたかに見えた紫色の光が、
信じられない速さでムーンを掠めた。
「うおっ!?」
間一髪、飛び退いた彼だったが、瞬間。怖気が身体を走った。
紫色の光の正体は、発光する霧のようなもの。
クリスタルを取りまいていたそれが、ぎゅわ、ぎゅわ、とひとつに固まり、
徐々に何かの姿を取りはじめる。
「何だこりゃ?……カメか!!」
「亀には違いないけど、これじゃお化けガメだよっ」
それを聞き、目の前のものを見ながら、アリスは知らず知らず青ざめていた。
「…あたし、聞いたことがあるわ。
昔、ここにクリスタルの力を借りて封印した魔物のこと」
「ランドタートルか」
「やっぱり魔物なの!?もうイヤだって言ったのにーーっ」
話す間にも、巨大亀の輪郭がはっきりと現れる。
頭が、尾が…そして甲羅が、手足が。
人の六、七倍はあろうかという怪物。
見るのも恐ろしかったが、釘で打たれたように
四人はその場を動くことが出来ず、一時も目を離せなかった。
皮膚は岩石と同じ土色だ。
甲羅は紫水晶の紫…だがそれは、宝石に例えるにはあまりにも生々しい。
おぞましいまでに、ぬらぬらと光っているのだ。
前後の脚には叩かれただけでも痛そうなのに、
これまた鋭い爪がくっついている。
立ちすくむ四人の前で、怪物は目覚めの喜びにか、大きく一声吼えた。
部屋全体が震えあがる。
それはまた、この場の子供達の気持ちを、ご丁寧にもきちんと代弁していた。
…そうして開けられた怪物の口。中は、熟れすぎた苺の赤。鮮やかすぎる、
人間の血の色 ── 子供たちは、ぞっとした。
「こんなの聞いてねえぞ!」
「…おかあさん……っ!」
「……っ」
「嫌よ、まだ十年ちょっとしか生きてないのに!」
言ったところで、もう逃げ場はない。何とか覚悟を決めて、武器を手にした。
怪物の、巨体である割にとても小さな二つの目。
久方ぶりの獲物の到来を歓迎して、にやりと笑ったように見えた。
「来るぞ!」
だあん!
間髪入れず、前足が振り下ろされる。
ムーンは慌てて後ろに飛び退いたが、たった今自分が立っていた床には、
あっという間にひびが入って砕けてしまった。
何という破壊力だろう!
「いくら一対四でも、こりゃ反則じゃねーの?」
冷や汗を垂らしながら言う。怪物が聞いてくれる筈もないが。
前足の第二打をぎりぎりでかわしながら、ムーンは
なるべく動きやすい場所を探した。怪物が自分以外に興味を持たぬよう、
奴の目を睨んだまま、わざと三人とは反対方向に走る。
勝ち目が無いのは目に見えてる。でも、だからといって
食べられてなるものか。ナメてると痛い目を見るんだぜ!
弟の意図を理解し、キャンディは甲羅の境目を懸命に攻撃した。
思っていたより怪物の皮膚は分厚くて、掠り傷程度しか付けることが出来ない。
それでも近づき、斬りつけては離れ。
何度も繰り返すうち、ついに剣が突き刺さる!
悲鳴をあげる怪物。そこへ、
「〈ブリザラ〉!!」
ポポが必死に呪文を叫ぶ。
「あっ!」アリスが指さした。「何だか動きが鈍くなったみたいよ!」
「…そうか、亀だから寒さに弱いんだ」
「所詮はカメってわけだな!」
「…や、やったの?」
「いや、まだだ…動いてる!」
── 亀の生命力を舐めてはいけない。
巨大亀は甲羅に暫く閉じこもっていたものの、反撃を開始した。
しかし、やはり先程の冷気のせいか、動きが鈍い。
これに手応えを感じた四人は、ばらばらに散って敵を翻弄する作戦に出た。
亀はといえば、この元気のいい獲物に思ったより手を焼いた。
寒くて上手く動けないのに加えて、獲物がちょこまか四方八方
逃げまどうものだから、結局なかなか食事にありつけない。
どうしていいかわからなくなって、やみくもに暴れ回るばかり。
「ほら、どうした!そんなんじゃ捕まらないぜ」
亀は重くなった瞼を持ち上げると、目の前でひらひらしている一匹に
狙いを絞る。こうなれば丸飲みにしようと、大きな口を直接持っていった。
「危ない!」 「ムーン!!」
気がつけば彼の背後は壁、逃げ場はなかった。もう駄目だ!
── 兄妹は悲鳴をあげ、目を瞑った。……だが。
「うぉっとっと、…ふう。── へへん、どんなもんだいっ!」
彼は、大亀の背でばっちり決めのポーズを取ってみせていた。
ご馳走を食べるべく降りてきた怪物の頭を踏み台にして、
すかさず飛び乗ったのだ。
思わず3人から、溜め息が漏れる。
「このムーン様をエサにしようなんざ、百億年早えんだよッ ── うわっと!」
悔しがって頭を振り、手足をばたばたさせる怪物。
が、獲物も必死にしがみつく。何せ亀は手も足も短いので、こうなってしまうと
もうどうしようもなかった。
── 戦闘は続行された。
「ひゃああ!」
振り下ろされる爪を避けて、ポポは右に左に走り回る。
「魔物め、お前の相手はこっちだ!」
キャンディは果敢に敵の懐に飛び込み剣を振るうが、敵は堪えた様子がない。
「…くっ…」息ばかりあがっていく。
「キャンディ!」…たまらず、ポポが叫ぶ。
「くっそーっ」ムーンは怪物の背に懸命にしがみつきながら、
歯を食いしばった。
「弱点さえ分かれば ── うわああっこら、暴れるな馬鹿!!」
「もうっ」ひらりとのたうつ尾を避けながら、アリスは独りごちた。
「これじゃ、らちが明かないわ!」
怪物の標的になるのを避けて、後ろに回り込んだはいいが、それから
どうしたものか。怪物の皮は厚そうで、自分の力だけでどうにかするのは
難しいだろう。その前に間違いなくこのナイフが折れてしまう。
第一、無事で済むかどうか。無傷でいられる方が奇跡なのに…
かといって、このまま見ているわけにもいかないし。それも悔しい。
(どうしよう?)
3人を見ると、疲れているのがよく判る。
ポポとキャンディは汗だくで肩で息をしているし、怪物の上にしがみついている
ムーンも、いつ振り落とされるかと思うと気が気じゃない。
「このままじゃ、みんなやられちゃう……。…ああもう!
どうしたらいいのよっ!!」
吐き出すようにして、彼女は自問した。
しかし、そうしたからと言って、答えが見つかるはずもない。
焦りと苛立ちが募っていく。── それから、恐怖も。
「……っ」
彼女は我知らず震えた。
忍び寄ってくる冷たい予感。もし、みんなでやられてしまったら。
いいえ、いっそその方が良いかもしれない。…だって、誰か一人でも
居なくなってしまったら。考えたくない、そんなのは嫌…!!
弱気になった彼女に、心の中でもう一人の彼女自身が言う。
…だから、みんなでここを出るの。あの怪物を何とかして倒して、
ここから出る。でも――
――でも、どうやって?
(祈りを)
「えっ?」
突然湧いてきた答えに、彼女は目を丸くした。
…いや、違う。今のは自分で思ったことじゃない。誰か、別の…声。
(……。…こ…)
「だ、誰?誰なの?」
今度こそ声が聞こえたような気がして、アリスは慌てて辺りを見回した。
…人影はなく、返事も聞こえない。
空耳だろうか、けれど確かに……。すると、
(……巫女…)
「!!」
今度はもっと、はっきりと聞こえた。確かに、『巫女』と。
「誰よ?隠れてないで出てきなさい!」
…しかし、気配はない。
「聞こえてるんでしょ? ── 遊んでる場合じゃ、ないの!」
振り向くと、そこには光を放つ六角柱の宝石があった。
透明な結晶の中に温かな光が宿り、ちらちらと瞬いている。
壁画の示す緑は、クリスタルの光そのものだったのだ。
風が纏う森の木々と草花の匂い、…その生命の証を示す輝き。
「……。クリスタル?」
信じがたいが、確かな予感。
…ここに居るのは、自分とクリスタルだけ。今話ができるとしたら、
他に誰が居るというのだ!!
しかし村で声を聞けるのは、今は三人だけだ。
風の司祭と二人の長老 ── 自分たちを育ててくれたトパパと、
絶えず見守ってくれているホマクだけ…。
「うああっ…!」
「!」
叫び声を聞いて向こうを見ると、キャンディが投げ飛ばされ、
壁に叩きつけられていた。
…いよいよ駄目かもしれない。
アリスは縋る思いで言った。祭壇上の水晶柱を見上げ、その両手で触れる。
「…おねがい、助けて」
まぐれでいい。構わない、たった一度だけでいい。
「みんなを助けて!!」
きらっ、と一つ、緑の星屑が零れたように思った。
(我が巫女…『風』の巫女……)
声が聞こえた。今度こそ本当に、間違いようがない。
はっきりと、直接頭の中に響いてきたのだから。
アリスには、それがこの上なく力強く、温かいものに思えた。
緑の光が、ぼやけた視界に眩しく映る。
(巫女よ、祈りを…祈りは我がちからの媒体、清き祈りは光となり、
広がりゆく。巫女よ、汝の心を我と共に。我に祈りを…── 光を!!)
「……っ分かったわ、祈ればいいのね!」
彼女は、知らぬうちに頬に零した涙を袖でぐいっと拭うと、
傍にあった儀式用の魔法陣に飛び込んだ。クリスタルの命じるまま、
一心に念じる。と ── 少女の唇から、不可思議な呟きが漏れた。
「『…光よ…いのちよ……今ここに、我を通じちからを示したまえ。
そのちからをもって、魔を封じたまえ!』」
零れる光の粒子が、クリスタルを、アリスを包み、広がっていく。
「くっ…」
ムーンの指に力がこもる。爪が、甲羅に食い込んだ。もう限界だ。
巨大亀の背は思ったよりも安定感が悪い。おまけに奴は激しく暴れるので、
これ以上身動きが取れないのだった。
弱点など見当たらない。結局思いつくことはといえば、あの太い首を
切り落とすことだけ、だが そもそも、それが可能なのかどうか。
ポポとキャンディが必死に立ち回っているが、
あの位置では気を抜いた途端やられてしまいそうだ。
せめて自分が、こいつの動きを少しでも止められれば…!
そう思ったとき ─── キャンディが疲労のあまり、とうとう
足下をふらつかせた。
「キャンディ!」
「来るな!」
思わず駆け寄ったポポの行動が、魔物に絶好の機会を与えてしまった。
大きく開けた顎がそこにある。
「…っこの野郎!」
ムーンは決死の覚悟で飛び出し、首を落とそうとした。
だが次の瞬間、無情にも乾いた音がして、小さな刃はあっけなく弾き返された。
彼は勢い余ってもんどり落ちる。
「 ── !!」
「「ムーン!」」
「っ…やべえ」
体勢を立て直そうとしたところで、物凄い重圧がそれを阻んだ。
二度、三度と床に叩きつけられる。
腕を動かそうとしたが、衣服の袖が爪で床に留められてしまっている。
片腕に至っては肩から二の腕に掛けて巨大な爪が食い込み、
血を流しはじめていた。足を使って蹴り上げようにも激痛が走り、動けない。
怪物の頭は目前だった。巨大な亀の口が迫る ── !!
「うわあああ!!」
─── 『止まれ!』
突然、圧倒的な迫力をもって響き渡った声。
怪物も少年達も、びくりと動きを止めた。
声は、耳を通してでなく頭に直接届くのだった。
『生命の環から外れしいのちよ…戻れ、在るべき流れの中へ…!』
「!…アリス?」
「………」
それは、聞き慣れた少女の声でありながら、もっと別の ──
逆らうことなど思いも寄らぬ声だった。
温かな緑光が漂ってきて、ぱあっと拡散する。
そして、光の粒子は亀の巨大な全身をすっぽりと包み込んだ。
─── 今だ!
三人の少年の呼吸が、ぴたりと重なった。
「「「やあああっ!!」」」
きしゃあん、と音高く、ポポの手にした結晶が砕けた。
解放される、冷気の嵐。
瞬間的に凍りついた皮膚を、大小二つの刃が突き通す。
凍った怪物の首は、意外に容易くそれを許した。
やがて、断末魔の咆哮の代わりに巨体の沈む音がした。
再び広間が揺れる。次の瞬間、怪物の巨体は音もなくかき消えた…。
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