(18)魔法決戦
倒れていた筈のキャンディが、元気で居る。
顔を見上げるなり、ポポはまた泣きそうになった。
「ほう」 魔導師ハインは興味深そうに目を見張る。
「目覚めたか。堅牢なる『土』―― 今度は、君が相手をしてくれるのかね」
「お望みなら」
警戒しつつ、キャンディは答えた。
しかし今のハイン相手に真っ向勝負したら、一人では敵わない。
ハインが体得しているのは、古代魔法だけではない。…案の定というべきか。
彼は本当は、魔法陣が無くとも〈魔法〉を使えるのだ。
そこに魔法陣が加わることで、何倍にも威力が膨れあがっている。
そして、あの得体の知れない暗黒の靄。あれも影響しているのは、間違いない。
古今の魔法知識を合わせ持ち、存分に使っているハイン。
勝ち目は無いと思われた。
それでも、見つけた。たったひとつの可能性を。
それを勝利に繋げるには、ポポの〈黒魔法〉が必要不可欠だった。
だから今これ以上、ポポを消耗させるわけにはいかないのだ。
―― どうしたものか。
「でも…貴方には、赤子の手を捻るようなものでしょうね。
それじゃ、つまらないのでは?」
「そうでもない」
ハインが言うと、床の紋様に光が走る。暗黒の靄が蠢く。
ポポを連れて、燃え上がった火の手からキャンディは逃れた。
続いて すた、と飛びすさり、弟が狙われぬように距離を取る。
「よく避けた。だが、いつまで続くか」
再び、魔法陣の起動。 ―― 出来上がったのは槍のごとき白銀の氷結晶。
これも外れた。
「やるな」 ―― 三回目。
相変わらず、楽しそうにさえ聞こえる。こちらは必死だというのに。
「来いポポ!」
「!」
手でも示されて、ポポが慌てて、言われた方向へ走る。
すると、彼が今まで居た場所に雷撃が乾いた音を立てて爆ぜた。
「………っ」
ポポは圧倒されっぱなしだったが…
ここで、初めてハインの余裕たっぷりの態度が、変わった。
ピンと張られた緊張の糸。
「君は…何を知った?」
「何も」 キャンディは短く答える。
「嘘をつくのは感心しない。
魔力の循環が鈍いんだ。君が、私の魔法陣に悪戯をした所為だろうな」
―― やはりそうか。ハインはこの城内で、自分たちを監視していたのだ。
「例え知ったことがあったとして、貴方には遠く及びません」
言葉通りだった。覚え立ての知識を使って懸命に仕掛けた妨害工作は、
予想はしていたが『焼け石に水』だったから。
彼の繰り出す〈魔法〉―― 循環が遅くなってもこの速さとは!
「ただ僕らは、僕らの『生きのびる可能性』が欲しいだけ」
狼狽えたポポが見た兄の顔は、予想に反して相変わらず険しいままだった。
狂気じみたハインの纏う覇気が、ふと和らいだ。
この場に不釣り合いな…湿っぽい暖かさを含んだ、嫌な空気が流れる。
「…今からでも遅くはない。降参して、私の研究に力を貸してくれるなら、
今すぐ和解をしてもいいんだよ」
「それはできない。だから、全力で抵抗してるんです」
「ふん」ハインは鼻で笑い、
「私と張り合おうというのかね。面白い…。面白いが」
また魔法を生み出そうとする。
「十年早い」
ぐいと腕を引かれ、ポポはそのまま走った。
「〈ファイラ〉!」
ハインに応えて、空間が赤々と燃える。
間髪入れず、光る魔法陣。
「〈ブリザラ〉!!」
「!」 「……!」
極寒の風に舞う幾万もの氷の粒は、ふわりふわりと舞う白い蝶に見えた。
蝶の群…その渦中を、また逃れる。直撃は免れた。
乱れた息。どくどく言う心臓。じわりと湧いては乾く汗。
―― つけいる隙がない。反撃する余裕がない。
「キャンディ、このままじゃ…」
「そうだな」
末弟と長兄が、魔法の発現を目の当たりにして差し迫った会話を交わした…
その時だ。
ガキィン!!
…耳を突く、鋭い金属音。
「外したか!」―― 心底 悔しそうな、その言葉は。
「ムーン!!」
「おう」 彼はポポに答えた。そして。「やっと起きたか」
「ごめん。重ね重ね」
「まーいいよ。貸しとくから」
「ありがとう」
一瞬姿を消したハインは、今まで居たのと別の場所に、再び現れる。
不幸中の幸いか。外したと思った一撃は命中していたらしい。
彼は現れた直後に呻き、倒れた。こうして見ると、完全に白骨の骸だ。
その骸を、絡まり合った枝の隙間から溢れ出した暗黒の靄が包まんとしていた。
そして、入り組んだ枝の垣根の向こう。幾つもの歪んだ生命体の影が映る。
「………」
――ポポは悟った。ここが、元凶だったのだと。
この『ハインの城』の、外にも中にも、魔物が居た。
鷹獅子グリフォンに似ているが、崇高さと程遠い獣。蛇女ラミア、爬虫人。
そして数々のアンデットや、不可解な人面虫…。
見るだけで寒気がする、暗黒の靄が生み出した魔物たち。
否、もし、ハインの実験の過程で弄られた生き物だったとしたら?
…これ以上は、考えたくない。
頭を振るポポの近くで、ムーンとキャンディが話す。
「相当しぶとい奴だぜ。…宣言したからには、ちゃんと切り捨ててやるけどな」
「できるだけ長く、彼を引きつけておいてくれ ―― できるか?」
「やるさ!」 兄の言葉に異議を唱えるつもりで、ちっ、と舌打ちしつつ――
ムーンは背を向け兄と弟から離れて、両手剣を構えた。
背後に向かって言う。
「アリスを頼む。今あっちに行かせたらアウトだ」
「うん」
遠く投げた目線の先、いつぞやのように祈りを捧げる妹の姿がある。
ハインが居るのは手前側だ。
白いローブの小さな姿と、黒い靄。目に映る色が、やけに対照的だと思った。
今あの白が象徴するのは、いうなれば希望の光。呑まれたら、お終いなんだ。
「一カ所に長く留まるなよ。魔法に捕まる」
「わかってるって」
…詳しいことは さっぱりだが、発動する〈魔法〉によって光らない部分が
あることは、ムーンにも分かった。
「もっと具体的に教えてくんないと」
「ごめん…まだ、はっきりとは」
ハインの〈魔法〉は速すぎるし、何と言っても魔法陣が
複雑に重ねられすぎている。
下層の分を入れたら、目に見えない部分も多すぎる。
自分が動く瞬間は殆ど感覚で、
…だから、今すぐ具体的にどう避けろとは教えられない。
「役立たず」
苦笑する気配。
冗談だよ、と言葉を投げて、ムーンは駆け出した。ハインと戦うために。
「……。手加減してやれば、つけあがって……」
暗黒の中。姿は隠れて見えねども、声がする。
「ポポ」…キャンディは、名を呼んだ。
いよいよ濃くなった敗北の予感に…背筋を凍らせていた弟は、はっとする。
視線は床の紋様に向けたまま、キャンディは出来るだけ冷静に言った。
「僕が、ハインの あの結界を『読む』。
今から僕の言う通りに、〈魔法〉を撃ってみてくれ」
「でも、さっきも弾かれちゃったのに」
「行けるかもしれない」
「無理だよ、もう!勝てっこない…っあの人、凄すぎるよ!!
それに、わけの分かんない ―― あんな強い力が味方してるんだよ!?」
ハインを包み込んだ、真っ黒な靄は、音もなく漂い…徐々に薄れ始めていた。
決して四散はせず、ハインの中に、じわじわと染みていく。
ムーンが剣を両手で構えて、対峙している。覚悟を決めた様子だった。
アリスは、いつしか白い柱(茸の軸に見えていたやつだ)の影に回りこみ、
一心に祈りを捧げている。
「『分からなく』ないよ」
「え?」
どういうこと?というポポの問いを予期していたのか、
キャンディは言葉の続きに回答を重ねた。
「これが『理論』なら――本当に『わけが分からない』なんてことはないんだ」
差し迫った表情と口ぶり。
しかし徐々に確信が光さしたキャンディの顔には、自信の類も顕れた。
「『理論と実験』で導き出された『結果』なら、同じ『理論』で対抗できるよ」
「………」
しかしポポは、咄嗟には言われた事の意味が理解できなかった。
「僕だけじゃ無理なんだ。ポポの力が要る。どうしても。お願いだ」
キャンディは、一切こちらを振り向かなかった。
言葉は切迫感のためか短く切れて、いつもより強く、
有無を言わせぬ響きを帯びる。
それで、ポポは大きく頷いた。
しかし決して気圧されたのでも、迫力負けしたのでもない。
「わかった。言うとおりに撃てばいいんだね?」
床を観察していた兄の目が、若干だが見開かれ ―― 口元が僅かに
微笑みを湛える。
「頼む」
黄金の瞳が つかの間、振り向いた。
ポポも、つられて思わず口の端を曲げる。進んで自らを奮い立たせた。
―― そうさ。歪んだ力になど、屈するものか。
「子供は話が分からないから、困る…」ハインは言った。「往生際の悪い」
「あんたもな!」
言うが早いか、ムーンは重い両手剣を振るった。
周囲の光を集めた黄金の柄…そこに居る『鷹』の翼が きらりと輝く。
びぃん、と鍔鳴りがした。ムーンに応え、いいぞ、と鼓舞するように。
暗黒はハインの内から瞬く間に溢れ出て、腕の無くなった方の肩先に
代わりの腕を作った。ムーンの攻撃を受け止めたのは、その真っ黒な腕だった。
ムーンは今度こそ臆することなく、躊躇いなく、その黒い腕を断ち切った。
一瞬だけ手応えがあり、二つに割れた腕は、また元に戻る。
彼は、間合いを計って飛び退いた。
「んな事じゃねぇかと思ってたぜ」
ハインの身体は、粉々に粉砕したところで、また復活してきそうな兆しだ。
元凶は、十中八九この暗黒の靄。何とかしたいが。
「ここまでだ。終わりにしよう。終わりにしてやる」
ハインが喋ると、真っ黒な靄が もわもわと揺らめいた。
目から、口から、肩口から…そして、服を纏った肋骨の間から。
白骨化したハインの身体 ―― 空洞を占領しているのだ。
煙というより、それはどす黒い炎に見えた。
ハインの野心を そのまま視覚的に見ているようだ、とムーンは思う。
それをたらふく呑み込んでしまい、あっぷあっぷと溺れているようにも見える。
何故だろう、強い言葉と裏腹に、苦しそうだった。
一瞬見せた子供らしい気遣いの表情を、すぐにムーンは変えた。
「やれるもんなら、やってみな!」
思いっきり挑発して、もう一撃。
黒い腕と、飛翔する黄金の鷹が交わり、激しい鍔迫り合いとなる。
「……!」キャンディは、手にした魔法書を、ばらばらとめくった。
基本形。風、火、水、そして土。
いかに複雑とはいえ、大元を辿れば数は限られている。
重なったこの魔法陣を、読み解かなければ。
手掛かりは、ハイン自身の発動させた魔法にある。
火と、氷と、雷と。―― 形を把握し、照らし合わせる。
「キャンディ、はやくっ」
焦ったポポが、接戦にハラハラしながら急かす。
「すごい…」
キャンディは目の前の状況を一瞬忘れて、感嘆の声を上げてしまった。
互いに邪魔をせず、最大限に力場を生かす位置関係で、
図形が描かれていたからだ。
魔法陣は大抵平面に描かれる。それを、空間の概念を取り入れて
縦軸上に持ってきたり、横にしたり、ひっくり返したりしているあたり、
やはり只者ではない。
下層にあったものはやはり大元の基盤だ。
作りかけにみえたものも、しっかり狙いがあって置かれたもの。
『水』を示す形はわざと分散させ、見えぬように一部が隠されている。
でも全体から見れば、しっかり組み合うだろう。東西南北。
おそらく、手前で見た培養液のような緑色の液体――あれを行き渡らせる為だ。
水は媒体として優秀だ。
柔軟で、どんなものでも殆ど取り込み順応して、同じ性質に染まるから。
―― ということは。
(だからか…!)
培養液と見えた ―― あれと同じ、緑色の光を走らせる魔法陣。
手前に広がっていた液体が、形通り文字通り、『水』の源だ。
では、『風』はどこに? …この城は宙に浮いているように見えた。
砂漠に吹く風を、そのまま力にしているのだろうか?
答えは間もなく出た。祈りを捧げるアリスの居る場所。
何故、彼女があそこに向かったのか ―― キャンディは思い当たったのだ。
何かあるに違いない。その推測が発端となり、
ハインがこの『長老の木』を狙った理由にも、何となくだが行き着いた。
森を守る『長老の木』。
木は…森は大地に根ざすものだけど、『風』だって森の繁栄を助けている。
命を運び、森を広げるのは、風だから。
羽を持つ妖精族、フェアリー。『長老の木』と共に在る彼らの嘆きは、
風が吹きすさぶ音にも似ていなかったか。
『長老の木』自身が、『風』とも関係が深いとしたら。
ハインの使う媒体は揃った。
あとは…海賊セトのくれたヒントが、全てを繋げてくれる。
曰く――『精霊の壁を。障壁を破れ』と。
「キャンディ…!!」 ポポが呼ぶ。
一人納得して、キャンディは頷いた。―― そこへ、短いムーンの声。
巨大な炎の舌が伸び上がり、彼を呑み込もうとしたのだ。
「…っ」 「!」
思わず視線をそちらへ向けた二人。強ばった表情が、無事を確認して…
ポポの方は ほーっと緩み、キャンディの方は突破口となる決定打を見つけて、
よしとばかり口の端を持ち上げる。
「氷だ」 端的に出された指示に、
「!」 ポポは慌てて応じる。
―― 彼の手の中、白い冷気の渦が生じた。…ハインの障壁を、抜けるか。
「〈ブリザド〉!!」
ごうっ、と音を立てて、冷気の塊がハインに向かう。
ぐ、とハインが呻く。
―― 効いた!
「あ…」 目を見開くポポの側、
同じように見届けたキャンディが思わず にっと笑った。
ムーンが、ぱっと表情を明るくした。―― 流れが、変わった。
「……っ ……。…私の、研究成果 ――」
切り捨てられていない方の自身の手で、ハインは自分を抱き締めるようにする。
「"破れる" ものか…"敗れる" ものか!!」
「!」
しゃあん、と耳を打つ、馴染みの音がした。
床の紋様、一部を除いた殆ど全てが輝いて、共鳴する。
次いで、魔法陣が形を為す。
緑の光が線をなぞり、ポポとキャンディを掴まえに床を走る。
キャンディは魔法陣の形で察知し、
ポポは精霊の気配を感じて…少しでも密度の薄い方へ走った。
ハインは、ポポの魔法を倍返し…いや、三倍には、して返しただろうか。
氷の礫が塊となり、鋭い矢のごとく降り注ぐ。
少年たちは再び、白と透明に縁取られた『蝶の群れ』を見た。
だが、突破口を見つけた二人に、再び恐怖心を植えつけることはできなかった。
「火!」 「〈ファイア〉!!」
冷たく鋭い『蝶の群れ』が、飛んで火に入り消えていく。
しゃあん!
また緑色が目に染みた直後、赤や橙に視界を塞がれた。
ハインが対抗して炎を巻き起こしたのだ。
「氷!」 「〈ブリザラ〉!!」
手応えを感じたポポは、〈魔法〉の段階を上げた。
勢いに乗った彼の〈黒魔法〉は炎を割って、標的に達した。
ハインの口から、悲鳴が迸った。
「いよっしゃあ!!」 ムーンが、つい早々と勝ちどきを上げる。
何度目かに連携を試みた時、
「雷!」 「え…っ」
二人の調子が一拍ずれた。――
ハインが撃ってきたのと同じ魔法を指示されたが為に、ポポが躊躇したのだ。
しゃあん!
―― 弾かれた。エネルギーの欠片が散れて吸収され、ハインを助ける。
「私に…誤りなど!私の理論は、完璧だ!!」
「うわあっ」
「右!!」―― そう叫んだのはムーンだった。
問答無用でキャンディに引っ張られ、間一髪。
毛髪をふわっと撫でる嫌な感覚がしたが、衝撃が突き抜けることはなかった。
気づくとムーンが剣を手にハインを妨害し、
魔法の発動を食い止めてくれている。
「ご、ごめん…」
「どんまい。もう一度」
励まし立ち上がる兄は、魔法を生み出す図形にもう目を走らせている。
「…まだ雷だ」
「……」
キャンディの言葉。
ポポが戸惑いの後、驚きに目を見張ったのは ―― 理解したからじゃない。
事実を ひとつだけ、察したからだ。
今まで戦いの…一部始終を観察していたのか?
―― あの瞬間。咄嗟に壁に添って倒れ、気を失ったふりをして。
「行けるよ」
何を知ったか、という問いに答えるなら、
キャンディは戦いの中で、ハインの障壁の"癖" を知った。
巧みに精霊を行使し、攻守両方に役立てているが、
攻撃手段となる〈魔法〉に応じて、ハインを取り巻く精霊の密度が薄くなる。
特定の精霊が攻撃側に周り、一定の〈魔法〉に対して守りが甘くなるのである。
それに、床の魔法陣。
時折全体が光るように見えていたけれど、それは違う。
一部は必ず、光らない。
精霊にだって相性がある。
火と水がお互いのちからを打ち消し合うように、
土と風が居場所を同じく出来ないように、
本当に全部の力を同時に同等に発揮することは…自然界の構造上、できない筈。
ハインが守りの結界を変化させるタイミングは、
あの不思議な音と、床に満ちる光が教えてくれる。
…攻撃魔法は神出鬼没に違いないが、それでも一定の法則が分かってきた。
問題があるとすれば、あとは ―― あの暗黒をどうするかだ。
スパァン!と潔い音がして、ハインの腕がもう一方失われる。
ムーンが魔法の発動に最も重要そうな部位を断ったのだ。
が、次いで彼は素っ頓狂な声を上げる。
ハインから湧き出した暗黒が、剣を包み始めた。
不気味に拗くれた黒い触手が、鋭利な刃をものともせず、ざわざわと
まさぐり調べている。
光の戦士たちの不安要素を嗅ぎ取ったのだろうか、暗黒はハインを擁護した。
(…嘘だろ?この剣は特別なはず…こいつ自身が、そう言ったんだ)
「……良い子だな。…ありがとう」
愛しい我が子を慈しむ声音で、ハインは言った。自らの内に抱擁する暗黒に。
「だが、こちらはどうだ…実に困った奴らだよ」
「よく言われたよ!」―― 故郷ウルでも。
どこまでも歪んだ魔導師。この真っ黒な靄に浸食されたら、自分も
こんな風になってしまうのだろうか?
ムーンは気味の悪さより、得体の知れぬ怖さより、腹立たしさが何故だか勝る。
一旦 剣を引くと、黒い触手はそれ以上付いてこなかった。
しかし、確かに暗黒が量を増している気がする。
白っ茶けた枝の隙間から漏れ出してくる分と、ハインに宿った分と。
「もう…もういい。わかった。私には、この暗黒さえあれば」
「―――」 ムーンが怪訝そうな顔をした。
もはや殆ど独り言となった。会話が成り立っていない気がしたのだ。
「お前たちなど…『光』など、要らヌ ――」
「!!」
ザッ!
危険を察知して退いたその身に、真っ黒な靄が降りかかった。
こいつは意志を持つ生き物だ。
インクが紙に滲むように、油が流れ出して地を這うように、
身体が浸食される…乗っ取られる!!
悲鳴を上げた矢先、―― 嫌な感触が消えた。
手の中にある、どっしりとした剣。黄金色の柄。
彼は無意識に雄叫びを上げ、突進している。
闇を貫き飛翔するのは、黄金の翼だ。
「――〈サンダラ〉!!」
稲光が暗闇を突き、空間を揺さぶる。
―― 金色の鷹が、光を纏い飛来した。
〈黒魔法〉の凄まじい衝撃があったが、ムーンは無防備に、真っ直ぐに、
手応えを信じて『王者の剣(キングス・ソード)』ごと突き進んだ。
音が、景色が、感触が、消える。
それでも、有るはずの剣の束に縋って…前へ、前へ。
「………っ」
通っていけ。このまま俺を通って、奴ごと射抜いてくれたらいい。
雷は、衝撃を伝えた後、乾いた白骨を燃え上がらせた。
火の精霊だけが取りついて残るのを、
魔導師であるポポやアリスなら、見たに違いない。
「あァ……アァァ」
驚いたことに、魔導師ハインの身体は まだ原形を留めていた。
「…チガウ。違う…来るな…来るな!!
嫌だ。冷たい。真っ暗は、真っ黒は、コワイ…!」
ハインは子供じみた言葉を譫言(うわごと)のように口走る。それが
ふと正気を取り戻し、人間の ―― 男の、叫び声になった。
それを聞き取って、はっ、とポポが表情を変える。
「ああああ!! やめてくれ…!! いやだ。嫌だ、いやだ!!!
私は、まだやることが ―― 死にたくない!!
死にたくない、死にたくない!!!死ニタク」
がさり。
熾火の底が崩れる音がした。無情にも、声は途切れる。
それきり、聞こえなくなった。
燃え上がった炎。
巻き込まれそうになったムーンを救い出そうと、キャンディが駆けつけた。
ひとまず剣から引き剥がそうとするが、ムーンは標的を縫い止めていた剣の柄を
必死に離すまいとしたので、難航した。
「………」
ポポは、青白い顔を強張らせ、頬を涙に濡らして立ち尽くしていた。
だが、目の前の炎が次第次第に不自然な黒煙を上げはじめた為に、
表情を一変させる。そこへ、
ビュッ
目の前を掠めた物体。最初、槍か矢でも飛んできたのかと思ったけれど、
違った。―― 蔓だ。あの、青緑色の。
そして、煙と思われたのは…半分以上が、ハインを魅せた暗黒なのだった。
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