3 妖精族
(10)とっても遠いところ
「やはり南へ回るしかありませんか」 キャンディが息をついた。
「…だろうなぁ。このまま西へ折れて尾根を突っ切るルートもあるんだが、
あそこは道が険しすぎる。…生半可な装備じゃ、どうにもな」
デッシュが腕組みをし、唸る。
地図を挟んで頭を付き合わせる男性陣の横へ、後片づけを一段落した
アリスが、エプロンで手を拭き拭きやってくる。
「遠回りでも、この前みたいな目に遭うよりマシだわ。
あたし、また竜に遭うのは…」
躊躇いがちに、それでもはっきりと、彼女は反対した。
「必ずしもそうとは限らな―…いや。可能性は大いにある、か。あの山から
ここまで、飛竜にとっちゃ少しの距離だ。まだ縄張りの範囲内だろうからな」
「それじゃ、南で決定ですね。起伏の少ない方を行きましょう」
これで、バイキングが住むというミラルカ谷へ出られる。
そして、上手く行くかは分からないが――彼らと交渉し、
船を手に入れることができれば。
『海は危険だ』――カナーンで幾度となく聞いた話が甦ったが、
結局は各地を回るのに、海へ出ることは必要不可欠、船も必須だった。
――やはり否が応でも、あの時お願いすべきだったのか…。
キャンディは内心、自分の甘さを悔やんだ。
行く手が危険なのは当然――何も無い方が珍しいと、今更ながら
実感しつつあった。
バイキングと交渉する。
海の荒くれが、まともに自分たちを相手してくれるかは分からない。
しかし、この辺りには他に海沿いの集落など無いし、今更戻るのも困難だ。
掛け合ってみる他ないのではないか。
こんな時だ。事情を理解してもらえさえすれば、
一隻くらい貸してくれるかもしれない。
上手く行くか――行ったとして、海へ出る。
「海には強い魔物が居る」と、見習いジェリコが言いはしなかったか。
世界が傾きかけた今、本当に安全な場所など在りはしないのだ。
一つを上手く避けたとしても、また別の危険や困難がやってくる。
当たる問題には必ず直面する。
今や、「どう避けるか」ではなく「どう乗り越えるか」なのだった。
――考えが甘かった。しかし、それでもなお。
それでも、なお心の片隅で願ってしまう。
良き道のり、出来うる限りの良き結末。それは、やはり愚かだろうか。
「遅ーいっ!」
ふいにアリスが声を上げたので、彼は顔を上げた。
ムーンが欠伸をしながら、こちらへやってくるところだった。
「仕方ねーだろ、暗いんだから!暗いと眠くなるもんなんだよ」
「よぉ、お早うさん」
「おす」
「よく眠れたかい」
「お陰で ぐっすり」
籠に残っていた杏を取ろうとして、止められる。
「食べる前に顔と手を洗ってらっしゃい。まだでしょう?」
妹がぴしゃりと言った。同じ台詞でも、母親が言うのとまた随分違う。
ムーンはおざなりに返事をすると、水桶を提げたポポと共に泉の方へ戻った。
目に見えない境界線を越えると、途端に暗くなる。
「ったく、時間感覚狂いそうだぜ。
あっちはあっちで、やかましくてしようがねぇし」
あからさまにうんざりした様子の次兄を見て、
ポポが少し困ったように微笑う。
「はりきってるね。というより、一生懸命なのかな、アリスも。
いきなりこんなことになっちゃったし…」
桶を沈める弟の横で、ムーンが濡れた顔を拭う。
「こっちにしてみりゃいい迷惑だ。
…ところで、これからどうするって?やっぱり、このまま南の森に入るのか」
「うん、それしかないみたい。このまま行くとミラノス山脈にぶつかるから、
もう一回山越えすることになるだろうって」
「でぇーーっマジかよ…」
ムーンは落胆のあまり肩を落とした。
只でさえ、前回の登山では酷い目に遭ったのに。しかし嫌だとは言えない。
歩いて旅をするなら、もはや限られた選択肢しかないのだから。
複雑な顔を見合わせた二人の横を、――ふと。確かな気配が通り過ぎた。
小動物かと思ったが、違う。小さな虫とも違う。
凝らしたムーンの目が、澄ましたポポの耳が、
微かな微かな姿と声を探り、捉えた。
…。
――人だ。親指ほどの。そいつが鼻歌軽く、樽を背から降ろす。
人形細工ほどの大きさのバケツが、泉にぽちゃん、と沈む。
バケツいっぱいに水を汲み、樽に移す。それを何回か繰り返し、
やれやれと息をついた。
そして、休憩しようと腰を降ろしかけたところで、
「―― !!」
そのまま腰を抜かしてしまったらしい。
そう、覗き込んでいた二人と目が合ったのだ。
二人とも、今の今まで、思わず息を詰めて見守ってしまっていた。
「!こ、こんにちは」
我に返ったポポが、愛想良く挨拶をした。脅かしたつもりはなかったのに、
親指小僧が飛び上がらんばかりに驚く。
人間が普通に発した声が、この親指小僧には、どのように響いて聞こえるやら。
「……」
ムーンはじーっと、一言も声を出さないまま、
ふいに親指小僧の首根っこを摘んだ。
「え。ムーン!?」
何を思ったか、そのまま連れて行く。
進路を相談し、各々の出発の準備にかかっていた三人は、一斉に顔を上げた。
「…放せっ!放せったら!」
…どうも、キィキィと甲高い声が聞こえる。
声のする方に目を凝らし、彼らは自分たちの見たものを、一瞬疑った。
「何だ、このちび」
「小人さんだよ。…こんなにちっちゃいんだ、初めて見たー」
「…ムーン、それは…」
「そこで拾った」
「ひとをゴミみたいに言うないっ」
じたばた暴れて がなる親指小僧を、ムーンがポポの手の中に放る。
うひゃっ、と転がりこんだそいつの頭から、白いシャッポが外れて飛んだ。
アリスが、地面に落ちた小さな小さな その帽子を拾う。
帽子と揃いの白いシャツ。裾をたくし上げた青地のコットンパンツに、
真っ赤でお洒落なチョッキ。
――彼女が目にした途端思い浮かべたのは、昔遊んだ着せ替え人形だ。
「いっっ…や〜ん、可愛い〜〜vv」
「嬢ちゃん、退いてる退いてる」
いきなり大きな人間共に囲まれて、目を白黒させていた親指小僧の方は
といえば、どうにか落ち着きを取り戻そうと必死になっていた。
大きな奴らの視線を気にしないようにして、自分を受け止めた人間の、
腕から肩へと移る。最終的に選んだのは、とんがり帽子の鍔部分だ。
(本当は、見かねたその人間が、持ち上げてそこまで運んでくれたのだが。)
高い位置から人間共を見渡して、余裕の顔で言ってやるんだ。
――そうとも、人間のちびなんか、怖がるおいらじゃないやいっ!
「おいらは、ティンク。『小人の森』から来たんだ」
途端に目を見張る人間たち。――どうだ、驚いたか。
「南にある小人の町さ。
〈ミニマム〉の魔法があれば、人間でも入れないことないけどね」
地震があってから行き来は難しくなった。でも、わざわざ
ここの泉の水を汲むために来たんだ――そう言うと、口々に感嘆の声が上がる。
「へえ、偉いのねぇ〜」
「そりゃあ、遠路はるばるご苦労さん」
小人のティンクは、得意げに胸を張った。
「ま、ね。これが無いと、うちのパンが焼けないからさっ」
「…パン?別に、ここの水じゃなくたっていいじゃん」
ムーンの語尾に、ちびの大仰な溜め息が被る。
「おっまえ、何にも知らないのな」
「何だって!?」
気色ばむ人間をヘー然と見返して、ティンクは言った。
「『小人のパンを食べれば世界が見える!』
うちの工房が編み出した特産品なのさ。
ここの泉の水を、生地に練り込まないと出来ないんだ。
へへっ…企業秘密なんだぞぉ」
「……。良いのか?バラしちゃって」
「?――!!しまったああ!!」
どうも、いけなかったらしい。途端に態度が一変し、
さっきの余裕はどこへやら。しきりに喚くのだった。
「ちくしょーっ!人間のくせに、やるなお前ら!実は策士だろ?策士だな!?」
「…勝手に喋ったんじゃねーか…」
両方の人差し指で耳栓をしながら、うんざり顔でムーンは言った。
「そんで?どうする。折角だから案内してもらうか、小人の森」
「丁度、その話をしてたところだったんだ。
僕らにとっちゃ、渡りに船――だけど、…お願いしても、良いのかな?」
「何だか忙しそうよ」とデッシュ。
頼みの案内役は、どうもそれどころではなさそうだ。
青くなったり赤くなったり、かと思うと跳ね回ったり。
実に忙しくしながら、きゃんきゃん、きゃんきゃん、何かを言ったが、
言われているムーンは知らん顔。文字通り、聞く耳持たない。
流石に煩くなったので、ポポが堪りかねて再び両手に抱えて降ろす。
すると、やっと静かになった。
キャンディが、真摯な顔つきで言った。
「ティンク君、頼みがある。僕たちを、君の住んでる所まで
案内してほしいんだ」
しかし、小人は首を横に振った。「……ダメ」
「いきなり虫のいいお願いだとは思うけど…どうしても駄目?」と、ポポ。
「僕ら、旅をしてるんだ。食べるものとか、買って足さないと、
これからとっても困っちゃうんだ。お願いだよ」
小犬みたいな大きな目に見つめられて一瞬たじろいだが、
ティンクはやはり首を横に振る。
「何でだよっ」ムーンが詰め寄っても、
「お願い、ティンク君!」アリスが可愛らしく頼んでも、
「何も、悪いことしようってんじゃないんだぜ?」
デッシュが取りなすように説得しても、同じ。
「駄目なものは、ダメ!」
「一体何が駄目なんだよ!?理由を言え、理由を。――吐け。」
「脅すな、脅すな」…とは言いながら、むしろ囃し立てているデッシュ。
再び首根っこを摘んで吊されながら、ティンクは相手のジト目を
努めて強気で睨み返した。
「…む、無理なんだよ。普通の人間には」
「じゃあ、『普通じゃない人間』って何だよ?」
「お前らみたいなデッカイのが、どうやって入るつもりだよっ。
悔しかったら小さくなってみろぉーー!!」
「何だと!?」ムーンの頭には血が上りかけたが、
「…。おお、いいとも!小さくなってやらあ!」彼は急に勝ち誇って笑った。
〈ミニマム〉の魔法が効果を示すと、急速に視界が変わっていった。
きっと、身体が縮む所為だ。
「酔った…」
五感を慣らすのに少し時間が掛かったが、慣れてしまえば面白い。
気づくと、目の前には四人と同い年位の少年が立っていた。
「どうだ、恐れ入ったか」
「〈白魔法〉できるなんて聞ーてないぞっっ!」
「言ってないもん」
「ずるいっっ!!」
「ずるくない!!」
「お前ら、普通じゃなかったとは」
「……何か、腹立つな」
ティンクは しかし、腕組みする。
「で?どうするつもりだよ。この森には見えない結界があって、
辿る道順を知らないと、一生目的地には着けないんだぞ!」
「そりゃあ」デッシュが振り向いた。
「頼りになる案内役が居るから平気だろ?」
「ティンク君、お願いしますっ」
「頼りにしてるわね?」
「………」 ティンクは唸って、うなだれた。
「……。…しようがないなあ〜〜」
満面の笑顔。本人の意に反して、言葉と裏腹に
本音が湧いて溢れんばかりなのが見て取れた。
「…………」
「良かった良かった。役に立ったでしょ、〈ミニマム〉」
「うんっ」
「ありがとう。お礼は言うわ。何であんたが持ってたのか、
まだそこを聞いてないの」
「最後の一個だったから。古い言葉であるだろ?
『残り物は何とやら』って。縁起いいじゃない」
「――呆れた」
「えー」
小人の視界はこんな風なんだ、とポポは思う。
今まで何気なく踏みしめていた落ち葉は、一枚一枚が絨毯みたいだし…。
枯れ枝は大きな障害物、石ころは大岩になった。
雑草の林がざわざわ揺れると、手招きしているように見えて少し怖い。
(いま虫が出てきたら、やっぱり大きいんだろうなあ…)
ぽつりと思いついてしまったことは、それ以上考えないようにした。
――小人の村への復路、しめて三時間の距離だ。
「普通に歩いたら、三歩で済みそうなもんだけどな」
「文句いうなら置いてくぞっ」先導するティンクが膨れる。
ポポは周りを見回しながら言った。
「変な感じなんだ、ここ。もしかしたら、
空間がねじ曲がってたりするのかもしれない。
…じゃなきゃきっと、この大きさで歩いたらもっともっと時間が掛かるよ。
…歩き始めてから、虫も動物も襲ってこないし」
「小人専用の道を選んでるからさ。
…最も、地震以来 物騒になってるから、魔物は出るけどね。
何だか分からないけど、奴らには嗅ぎつけられちゃうみたいなんだ。
気をつけて」
「ええっ」
こそこそ、ちょこちょこ、小さな探検隊は進む。
「もうちょっとゆっくり歩けよ!」
「何だ、もうへばってんの?情けないねっ」
「こっ、この野郎…」
ちびの言うことには腹が立ったが、いつもより息があがっているのも
事実だった。どうにも思うように行程がはかどらない。
…何しろ勝手が違うのだ。
落ち葉の降り積もった中を強引に行こうものなら、まず埋もれる。
普段なら飛び越す水溜まりは、わざわざ迂回しなければならない。
うっかりぬかるみに足を取られれば、独りでは抜け出せなくなる。
普段なら通れもしない木のうろを抜けて、蔓草をよじ登り、
根っこの滑り台を降りる。
いつも何気なくしている『歩く』という動作が、
この大きさになれていない所為で大事業になった。
日陰を通ったら、キノコが群生していた。本当に傘の形をしている。
近寄ろうとしたら、デッシュが「それは毒だぞ」と教えてくれて、
少年たちは慌てて下がった。
ティンクが「背負い袋に空きはあるか」と訊くので頷くと、
大きな大きな木苺を、丸ごと一つ持たされる。
大荷物だ。これだけで一行の人数分はジュースが絞れるそうだから、驚きだ。
これほど大きいのを一人で持つのか、と危惧していると、
〈ミニマム〉で木苺を小さくして幾つも入れられた。
これで必要な時に再度魔法をかければ、元の大きさの木苺に戻る。
大量のジュースが絞れるわけだ。
「小人っていいなあ」
「まあねっ」
歩きづめでどうにも足が動かなくなりはじめる頃、
ようやく先頭を足取り軽く行っていた案内小人が歩調を緩めた。
「あれだよ。あのアーチを潜るんだ。
――脇から通り過ぎると別の所に出るからね!」
ティンクが指し示した先では、地面が抉れ木の根が奇妙に持ち上がっている。
――なるほど、こうして見るとアーチ状だ。
小人用の小径を幾つも通り、ここを潜らねば村に辿り着けないとしたら…。
『人間にはそう見つけられない』というのも頷ける。
「早く来ーいっ!」
手招きする小人族を追いかけていくと、視界が急に明るくなった。
――門を抜けたのだ。瞬間、辺りを包む空気までが変わったような気がした。
穏やかな葉擦れの音に混じって、人々の喧噪が聞こえる。
それは不思議に音楽めいて、高まったり静まったりした。
周囲が明るいのは、木の葉が陽の光を集めて煌めいているから。風が抜けると
しゃらしゃらと鳴る。ガラス細工のようだ、と思った。
「ようこそ、小人族の村『トーザス』へ!」
その名を聞いて、ポポは「ああそうか」と納得した。
『トーザス』とは、古代語で『とっても遠いところ』の意。
名の通り、ここがとっても遠くにあるような気が、ポポにはしたのだった。
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