第2巻:駆け抜けた異変 |
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海竜ネプト | ||||||||||
――風が変わった。 男は入江の淵にたたずみ、静かに彼方を見つめていた。 上空で、かもめたちが鳴き交わしている。 日射しは強かったが、波は至って穏やかに上下を繰り返していた。いい日和だ。 雨季の合間に気まぐれにやってきた晴天だった。空気は湿気を帯び、優しく潮の香を運んでくる。 背後には鋭く切り立った崖、奇岩の群がそびえている。 長い間に隆起や沈降を繰り返し、波に洗われて出来上がった造形だ。 海は…大自然の力は、こんなにも偉大なのだと見せつけられる。しみじみ感じてしまう場所だった。 ――もっとも、そこに居を構えようと最初に考えた、人間も人間か。 改めて見れば、崖には大小さまざまな穴が空いていた。 多くは自然に出来たものか――いや、人工物もかなりある。 格子をはめて窓としたもの、切り出し削り取ってテラス状にした部分など、 確かに人の手が加えられている。 しかし、これらは驚くべきことに少し距離を置けばたちまち風景の中に融け、 ほとんど見分けがつかなくなってしまうのだった。 灰色をした、まさに天然の要塞だ。 崖の上に小さな石造りの建物がある。見張り台を兼ねたものだ。 それも奇岩群に紛れるので、所在を知る人間か――もしくは、 あの最上部の旗が無ければ、見つけることは不可能だ。 掲げられた旗が、風に吹かれて翻る。 旗に描かれたのは、海と同じ色をした竜だった。 そして、その竜が絡みつき抱くようにしている――銀糸で縫い取られたあれは、錨。 だが、旗は長い間そうして放ってあるのか、傷みが酷い。 潮風にくたびれて、鮮やかな空の青を背景にすると、いかにもみすぼらしく見えた。 「ちっぽけなもんだ…」 男は誰にともなくそう言うと、自嘲とも愛惜ともつかぬ微笑みを浮かべた。 海を映したその目を細める。 ここから眺める限り、世界は平和を保っているように見える。――だが。 「海よ――何故、そのように荒ぶる?」 我知らずついた溜め息を、潮風が残らず散らしてしまった。 (何かが変わるというのか?) これ以上、悪くなりようがないというのに。 「風守」 ふいに呼ばれ、男は声の方へ視線を転じた。テラスの上だ。 明らかに落ち着き無げな人影に向かい、彼は静かに問う。 「どうした」 「来てください。妙な連中が…」 言われて、内心なぜか納得する。 ――早速か。もう、厄介事など充分すぎるほど、抱えているというのに…。 「すぐに行こう」 彼は、すぐさま踵を返した。真っ直ぐ船のドックへ向かう。 中にはほとんど船が無い。空と言っていい状態で、もはや無用の長物と化している。 その様子を目にすると、さすがに落胆せざるを得ない。 …いや、今そんなことを考えている場合じゃなかった。 彼は壁に沿った螺旋階段を上る。靴の踵が石段を打ち、空虚に響く。 雑具の置いてある場所を通り抜けると、すぐそこが廊下だ。 ざわめきが聞こえた。潮騒か――風の音か?違う、あれは人の声だ。 突き当たりの豪奢な扉を無視し、更に奥へ。段々と声がはっきりする。 と、彼は一瞬我が耳を疑った。騒ぎの只中に、信じられぬものを聞いたので。 ここにはおおよそ似つかわしくない――子供の声。 階段を駆け下りると、彼は急いで分厚い木の大扉に手を掛けた。
「だから言ってんだろ、船を借りにきたって!」 日焼けしたブロンズの肌に、幾多の傷。屈強な海の男たちに囲まれながら、 ムーンは負けじと声を張り上げた。 面白半分で冷やかしの声をあげる者、にやにや締まりのない笑いを浮かべる者、 鋭くこちらを見つめる者。――そのいずれもが、自分たちを検分しているのが分かる。 ここで引いたら、それこそ負けを認めるような気がした。 だから彼は、しかと顔を上げ、目の前の賊を睨み返す。 「正気か坊主。寝言は寝てから言うもんだ」 「来るとこ間違えてんじゃないのぉ?うちじゃ貸し船はやってないよー」 「『奪う』ことはあってもな」 ひゃひゃひゃ、と耳障りな笑い声。…ひどく腹が立った。 近くで無遠慮にパイプを吹かしていた奴が、 デッシュの大きな背に隠れるようにして立っていた弟に煙を吹きかけた。 …けほけほと咽せるのが聞こえる。 (子供だからって、甘く見やがって) そりゃあ世間的に見れば子供かもしれない。 けれどムーンは、そこらの大人よりずっと自分の方がましだと思っていたし、 喧嘩だって大の男に負けない自信があった。 拳を固めると、それを別の手のひらが制する。キャンディが静かに首を横に振っている。 彼は渋々気を取りなおし、何度目かの挑戦を試みた。 ――今度は、先程よりもっともっと努めて、気持ちと言葉を落ち着けながら。 「……。船を、貸してほしいんだ」 「はぁん?良く聞こえねぇなあ」 「アンコールだ」 「もういっかーい」 間髪入れず、この通りだ。冷やかしの声と笑いが波になって押し寄せ、引く。 ムーンは怒りのあまり震えた。 ひょっとしたら、そうやって挑発に乗ることこそ奴らの思惑通りだとは知らずに。 やがて、やたらと図体のでかい男が前に進み出てきた。 「度胸は褒めてやる。だがな、ここはお前らみたいなガキの来る所じゃねぇ」 「おとなしく、お母ちゃんとこ帰んな」 用が無けりゃ、こんなとこに来るもんか!――ムーンが怒鳴るより先に、 「お願いです、話を聞いてください!」とうとうキャンディが声を上げた。 だが、彼では海賊たちの神経をかえって逆撫でするかもしれない。からかわれて終わりだろう。 ムーン同様そう思ったのかは知らないが、青年デッシュが割って入る。 一応、仲間内では唯一の年長者だ。 「頭領さんに会わせてくれないかい。そんなに手間は取らせないし、悪いようにはしない」 「頭領がお前らに会って、どうするってんだ。生憎、そっちに用があっても、こっちには無えんだよ」 ごもっとも。再び同調の声が多数あがる。 こんなに大人数の前で、事情を話すのか? 無理だ。それこそ冗談みたいな話なのに。 第一、聞いてくれそうな雰囲気ではない。火に油を注ぐようなものだ! ――キャンディが歯噛みした、その時。 「残念ねぇ」 男たちの野次の中、ひときわ目立つ高い声がした。 無論、一人しかいない。アリスだ。 「!」 ムーンの目の端にも、白い袖が見えた。 思わず振り返ると、弟が止めるのも聞かず、彼女は前へ出てきた。 慌てて腕を掴まえようとしたが、脇をすり抜け、こともあろうに輪の中心へ。 そして彼女は低い位置から、海賊たちを見渡した。 「とっても残念だわ」 「俺たちもさ。悪いが、お嬢ちゃんの期待には応えられそうもねえ」 にやにやと相変わらず笑みを浮かべる者たち。 明らかに馬鹿にした様子の、あるいは興味本位の視線が無遠慮に飛び交う中に在って、 「…ほらね」――妹は平然と言うのだった。 「私たちがいくら必死に言ったところで、おじさんたち、ちゃんと聞くお耳を持ってないんですもの」 その場に居た全員が、ぎょっとする。怖いもの知らずとはこのことだ。
「海賊ね…。確か、他にも素敵なお名前があったはずだけど」 「おうよ、俺達ゃ『海の貴族』さ!」 「――昔の話だ」 一部で歓声があがり、しかし火が消えたように静まった。リーダー格らしい黒髭が、言う。 「俺たちみたいな『貴族』は、お嬢ちゃんのお気に召さないかい」 「ええ、そうね。幻滅よ。少なくとも、おじさんたちみたいに子供相手にムキになる『貴族』にはね」 しん、と静まりかえった。微かな話し声すら、消える。 部屋の奥にあるベッドから、誰かのいびきだけが盛大に響いてきた。 (――何だ、これ?) ムーンは呆気にとられて周囲を見、気づく。男たちの、どこか虚ろな表情に。 思えば、絡んできた奴らはなぜか皆やけっぱちだったし、 傍観を決め込んでいた連中も、やる気がなさそうだ。 原因を探るより前に、彼の胸に何とも言えない、やるせなさが過ぎった。 自分は、『海賊』という呼び名に、もっと力強いものを想っていた。 あの海と同じで、懐が大きく、深く――活き活きと輝く様を思い描いていた。 たとえ世間じゃ乱暴だ、粗野だと言われたとしても、 彼らのひととなりは、海と同じくらい偉大で。 独特の…だけど、そこらの男にはないカッコ良さを。 ――それなのに。 「…そうだよ。あんたら、カッコ悪いぜ」 海賊共が、ぴくりと動く気配がする。 「『貴族』が聞いて泣く――…じゃなくて、笑っちまう、の間違いか。 いっそ、『海の物乞い』に改名すれば?」 みすみす挑発するような真似だ。…それでも、言うのを止められない。 「海みたいに大きい?図体ばっかりでかくたって、からっきしじゃねえか。 人の話もまともに聞けねえし、了見も狭いし。耳腐ってんじゃねえの? ああ、それでなんだ。そんじゃ、まともに話しようとしてもしようがねぇよなぁ!」 「――…坊主」 楽しみだった。海賊に会えるのが。 「所詮は大人だ。しかも、一番なりたくねぇ大人!」 「てめえ!人の気も知らねぇで!!」 「ああ知らねーよ、根まで腐った奴らのことなんか!!」 自分の言葉に、自分自身が熱くなってしまっていることに、彼は気づかない。もちろん、 海賊たちの様子にも。 「最っっ高にカッコ悪い!!」 「……!ぁんだと、このガキッ!」 「やめろ!」 巨漢が、気色ばんだ仲間を止めた。 彼は少年の襟をぐいと持ち上げ、その顔を自分の目線の高さまで吊す。 「――坊主」 出てきた声は意外なほど静かだったが、目には怒りが溢れんばかりにたぎっていた。 「ちぃと口が過ぎたようだな。後悔するなよ。――連れていけ!」 一度は静まったかに見えた騒ぎが、再燃した。 ずらりと取り囲んでいた海賊連中が、無礼この上ない侵入者を捕まえにかかる。 「やめて!やめてよ!何すんのよ!」 「痛いよ、放してよ~」 悲鳴、懇願、殴り合いに呻き声。 それいけ、やれいけ。――囃し立てる声が被って、何かがすっ飛ぶ。 壺か、器か…硬質なものが、がちゃんと割れる音がした。 椅子が倒れ、卓が突き飛ばされる。 『風守』のセトが扉を開けた時には、 目の前に乱闘の跡と、海賊たちに捕らえられた来訪者たちの姿があった。 「これは…」 「風守」 「セト!」 「セトさん…」 セト自身が問う前に、彼の背後から女性がひょいと顔を出した。 「まったく、何をドンパチやってるんだい!暴れんなら、外にしとくれよ!…っと…」 「客に手をあげるのは、あまり感心せんな」 セトの声は、落ち着いて良く通る。 「けどよ、セト…」 言いかけた黒髭は、しかし、目で制され黙ってしまった。 窓の外で潮風が鳴る。――セトは目を細めた。 海賊たちが気まずそうに目配せしあう中、セトは、ゆっくりと歩んだ。 倒れたテーブルの傍らで尻餅をついていた少年を立たせると、 その背を促して仲間たちの元へ返す。 人垣が割れていく。海賊たちは、不意の客を捕まえていた手を、一人、また一人緩め、離した。 少年たちの側に居た、見慣れぬ風変わりな服の男が、肩を竦めた。 やがて、風守のセトは、まだ幼さの残る少女に目を留めた。 注意深くこちらを覗う瞳は強敵にでも挑みかかるよう、しかしそこには怯えも滲んでいる。 『風』が、格子を揺らした。 セトは微笑し、少女を前に膝を折る。ざわめきが走った。 先ほどの少年が何かを言いかけ、もう一人に止められる。 少女が驚き、わずかに後ずさった。 セトは皆の反応を造作もなく受け止めると、言った。 「失礼をした。貴女は、風の巫女だな?」 「は……。え、ええ――。そうよ?」 「そうか」彼は頷いた。「ようこそ。風の巫女。いや…光の四戦士殿」
「へえ。あんた、三人もノシちゃったのかい。やるもんだ」 ジルと名乗ったその女性は、話を聞くと面白そうに笑った。 化粧映えする顔に口紅も印象的な、あだっぽい美人だ。 長いまつげを瞬く彼女を、ムーンはふてくされて睨んだ。 冷やした布を片頬にあてがう。腕の傷に薬を塗られると、滲みたのかビクリとした。 「そっちが悪いんだぜ。何かにつけてガキ、ガキって」 「あっはっはっは!そうだね、こんないい男つかまえて」 ――憮然とするムーンである。 「すまなかったな」 セトが言葉通りに取れる微笑を浮かべた。 「気のいい奴らではあるんだが。現状が現状なので、気が立っている者も多いんだ。 君たちには悪いことをしたと思っているが――どうか許してほしい」 「いいのよ、おじさま」とアリス。 「先に出てったのは、こっちなんですもの。…まったく、あんたたちときたら」 「あんな言い方されて黙ってられるか!…一番煽ったのは誰だよ」 「知らないっ」 ぱしん、と薬液つきの布を傷口に当てられて、思わず悲鳴が上がる。 「いって…キャーンディ、〈ケアル〉掛けてくれよ〈ケアル〉」 「耳貸さなくていいからね」 妹にぴしゃりと矛先を制されて、ムーンは情けない声を出した。 長兄は苦笑せざるを得ない。 「罰として、しばらく痛い思いをするように」と、妹は〈白魔法〉の使用を自粛したのだ。 ひとまずの手当を終えると、自前の薬草や包帯をさっさと鞄にしまった。 「みんな血の気が多いんだから」 「ホントホント。野郎はこれだからイヤだよね」 「デッシュ。あたしは、あんたのことも言ってるの」 デッシュはさりげなくジルの肩を抱こうとしたが、アリスに睨まれて、手を引っ込める。 …ジルが笑顔のまま言った。 「しかし、船も無しにここまで来たとはびっくりだ。よくあの山を越えられたねぇ」 「南の迂回路を使ったんです。幸い、魔物に会うこともあまり無くて」 ――アリスは思わずキャンディを見た。嘘八百だったからである。 本当は、山越えなどしていない。 小人のシェルコ先生に教えられた抜け道を使って、 小人の村から、このミラルカ谷まで突っ切ってきたのだから。 小人にしか通れない、いわば秘密の道を。 『上を歩いていくよりはずっと楽だし、早く着けると思うよ』 その言葉通り、時間と体力をかなり節約できたのだった。 アリスなど、食あたりの治療費代わりに〈ケアルラ〉まで貰ってしまった。 中級〈白魔法〉の珠だ。 兄が、わずかばかり困ったような表情で目配せをしてきたので、 アリスも、ムーンもポポも調子を合わせた。 「――さて、何だったか」 手当が一段落したのを見計らって、セトが言ってくれた。 光の戦士一行は、顔を見合わせる。キャンディが口火を切った。 「はい。僕らは、実は…」 船を貸してほしい。――何度となくした説明を繰り返すと、 今度は、セトとジルがお互いに視線を交わす。 いつの間にやら興味津々、こっそり小部屋の外に集まっていた海賊たちも同様だ。 (大人数で来たうえ身体も大きいので、ちっともこっそりじゃなかったが)揃いも揃って困惑顔。 つられて、四人も同じ顔になってしまう。 デッシュだけが冷静に様子を見ていた。 「…これは…少々、難儀だな」 「もしかして…あのう…魔物が居るからですか?」と、ポポ。 「あ。強いモンスターが居て船が出せねえってやつか」 こちらは港町で聞いた話。ネプトの岬付近で、遭難が相次いでいるという。 まさにここのことだ。魔物かもしれない、との噂。…あれは本当だったのか。 あんたたち、入っておいで。ジルに言われておずおずと入ってきた海賊が、 「うん。実はな、困ってるんだ」 恐れを滲ませた声で答えた。 一番最初に対面した時はあんなに怖そうに見えた黒髭のリーダーが、 戸口で屈強な身体を小さく縮こまらせている。 「いっそ、ただの魔物なら、どんなに良かったか」 「滅多なこと言うな!魔物だって何だって、敵わなくちゃおしまいじゃねーか」 「アレじゃ魔物と変わらねえよ…」 ざわざわと海賊たちの話が聞こえてくる。いずれも、不安そうな声…ムーンは眉をひそめる。 「静かにおし!」ジルが両手を打つと、しんと静まった。「あのひと、呼んでこようか」 「起きているかな」 「叩き起こすわよ。腐っても頭なんだからね」 「そんな、恐ろしい」と、黒髭。 セトは暫し考えた後、光の戦士一行に言った。 「重ねて大変な思いをさせるかもしれないが、頭領に会ってほしい」 光の戦士たちは、待ってましたとばかり頷いた。 「失礼でなければ、こちらから出向きます。お騒がせしてしまったし」 「でも…」 「止した方が」 「え?」 弱気にざわつく仲間に、セトが言う。 「いや、来てもらおう。事実を見てもらった方が、話は早い」 事情が分からず、きょとんとした少年少女に、 「幻滅したらゴメンよ」と、ジルが困り顔で肩を竦めた。
無骨な造りの砦を案内され、海の駿馬タンギーの鬣で作ったという 豪奢な飾りを横目に扉の中へ入ると、途端に、酒と汗の臭気が混じって鼻をつく。 身の回りを世話していた女性数人が、ジルの顔を見るなりホッと笑顔を見せ、 そそくさと席を外した。 セトとジルが、四人とデッシュのことを説明し、取り次いでくれる。 海賊ビッケは、長椅子にふんぞり返っていた。黒々と逞しい体つきをした男だ。 齢五十近いというのに、髪も髭も鮮やかに赤い。 昔は海原にその人ありと謳われていたそうだが、それも「昔は」の但し書き付きだ。 その理由は、聞くまでもなかった。その姿に、やはりどこか投げやりなものを感じる。 二の腕に海竜の入れ墨が目立ったが、それすらムーンは格好いいと思わなかった。 眠たそうな目。 卓の上のグラスと、床に転がったウィスキーの瓶を見るに、つい先程まで飲んでいたのだろうか。 ――ビッケは言った。 「船、だって?」 「はい」 キャンディが、真剣な面持ちで頷く。…するとビッケの口の端が、わずかに持ち上がった。 「海へ出てどうする。今はどこもかしこも危険ばかりだぞ。 あの大地震以来、魔物がわんさと出てきてひしめいてる。 常識じゃ考えられん事が平気で起こる」 「その通りです」 「船を出しゃ沈む。上手く陸へ渡れたとしても、その先どうなるか分からねえ」 「覚悟の上です」 「故郷へ帰れる保証もねえ。兄妹と離ればなれになるかもしれねえし、死ぬとも限らねえ。 …それでもか」 「――」思わずポポとアリスが息を呑み、身体を強ばらせる。 「…ええ」キャンディは努めて冷静さを保った。「行きます。行かねばなりません。何があっても」 その瞬間、ビッケの瞳がきらりと光ったような気がした。 「先の可能性が、ゼロだったとしても?」 キャンディは相手の目を見据え、黙って頷く。 すると…くつくつと喉の奥から、笑う声。 「若いな」海賊頭は言った。さも可笑しそうに。「よくもそんなことが言える」 細められた目が、まるで剣の切っ先のようだ。その目は言っていた。『甘い考えは捨てろ』と。 キャンディは内心、焦りを感じている。 …そう、分かっていたはずだ。現実は、いつも、思い通りに行くとは限らない。分かっている、はずだ。 言えない。不都合なものは、出来ることなら捨ててしまいたいなんて。 「甘っちょろい正義感だけで、なんとかできるもんでもないぜ」 このひとは知っている。僕が、甘ったれた望みを捨てきれないのを。 彼はとうとう、いたたまれなさに目を伏せた。そこへ、 「だから何だ」――声が響いた。怒りを含んで。 「だから何だよ。…ごちゃごちゃうるせえんだよ!」 ムーンが、兄を押しのけた。 「何度言わせんだ!俺たちは海に出たいんだ!! …帰れるとか、帰れねえとか。危険とか安全とか!そんなもん、関係ねぇんだよ!! 行かなきゃなんねえんだ!船は借りる!文句あるか!!」 くっ、とビッケが再び喉を鳴らす。 「何がおかしい!?」 「出せるものなら出してる。そこまで言うなら、出してやるよ。 ただの魔物に成り下がって暴れてやがる、あの竜を退治できるもんならな!」 「!!」 「ああ、やってやらあ!見とけよ。退治できたら、船は俺が貰うからなっ!!」 「――いいだろう」 海賊ビッケが、にやりとした。どこか苦しげに。 「よっし!二言はナシだからな!」 ムーンは言い放つとズカズカと部屋を出、人が居るのも気にせずその鼻先で思いきり扉を閉めた。 一瞬の間があり、仲間たちが後を追う。セトが一礼してそれに続いた。 部屋の前で集まり、相変わらず聞き耳を立てていた海賊たちも、一人、二人と解散する。 いつの間にか長椅子の側に立ち、気遣わしげな視線を向けたジル。 頭領ビッケは、呻くように、あるいは独り言のように、呟くのだった。 「……。駄目だ。海竜には勝てっこねえ……」
通路を、行ける方に早足で大股に、ムーンは歩いた。 もちろんここはアジトの中、海賊が大勢居たけれど、そんなことは気にしない。 「ムーン!」後ろに、ポポが慌てて追いすがる。「ムーンてば。どこ行くの!?」 「魔物退治だよ、ちくしょう!弱虫はついてくんな!!」 ぐん、と振り向き苛立ちの波をまともにぶつけると、弟はビクリとした。 「思い切ったことしたねぇ」とデッシュ。 「……」 そんなんじゃない。ただ、夢中だっただけだ。 「『船は貰う』なんて。あんたの方が海賊みたいだったわよ?本気なの?」 「あんな腰抜けに使われるなんて、船が可哀想だ。見てろ、今に俺が船長だ」 「そんな…」 「ムーン」 「あんなのがボスだなんて、俺は認めない!!」 「ムーン!」 「キャンディは悔しくないのか?あんな風に言われて。 何だかんだと、言い訳みたいなのばっか聞かされてさ。俺は、嫌だよ!」 あんな風になるのは――自らゼロにしてしまうのは。 「ちっともカッコ良くないじゃん…!」 「…ま、何にせよ、ここの御仁たちの困り事ってのは分かったな」 「デッシュ」 「残ってる船は、あの一隻だけかい?セトさんや。ずいぶんと立派だけど」 「ああ。『エンタープライズ』だ。我々の命と言ってもいい」 「ちなみに、暴れ回ってる竜ってのは」 「我々が守り神として祀っている、『海竜ネプト』だ…そのように見える、と言うべきか。 ただの魔物だ、幻だと言われたら、そこまでだがな。あのエンタープライズより上級の帆船が、 ひとたまりもなかった。命を落とした者も居る」 「勝算は」 「無い。――はっきり言おう。挑めば命は無い」 「…」 「ふむ」 デッシュが顎に手を当てて、考える仕草をする。 やがて、食い入るように見上げるムーンと視線を合わせた。 「…だ、そうだけど。それでも行くか?」 「もちろん。俺一人だって行ってやる」 「!」 「……」 「船は動かせないでしょ!?」 「カヌーでもボートでも使えばいいだろ?それも駄目なら、泳いでだっていい。行ってやる!」 「嫌よ、壊されたら堪らないわ!折角サスーンの王様からいただいたのに!」 「無茶だよ…」 「少し落ち着け、ムーン」 「大の大人が、何十人でも、何百人でも敵わなかった奴だぞ?」 「だって!それじゃ、どーすんだよ?このまま、ここで足止めか?それじゃ、 奴らだって、俺らだって、困るんじゃん!」 デッシュは思った。――正論だ。最後だけは。 「…こりゃ、困りましたねえ」 「デッシュ…ふざけてんのか?」 デッシュは、また何か思案する風だったが。 「…とりあえず、日も暮れてきたし。夕飯時も近いし。――明日にしよ」 「「え」」 「は!?」 「こうなったら、慌ててもしようがないでショ。明日にしよ」 そうと決めるとデッシュは、さっさと今夜の食事やら、寝床やらの交渉に入ってしまった。 今日もまた、一日が過ぎようとしていた。
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