冒険日和
サイトトップ小説幻生林 第4巻 水がしろしめす地

第4巻:水がしろしめす地

  水の巫女

「雲を出るぞ!」
 船長ビッケが言うが早いか、視界が急に拓けた。
 風の村ウルの悪ガキ四人衆――もとい、光の四戦士は『(そら)(なか)』に居た。
飛空艇がパタパタとプロペラを回している。目の前は、見渡す限りの青だった。
 …空と、海と。そのあまりの広大さに、四戦士はおろか、海賊ビッケとその一味も息を呑み、
揃いも揃って言葉を失う。こんな光景を見るなど、誰が想像しただろう?
 ムーンは、のろのろと右手を持ち上げ、自分の頬をつまんで引っ張った。
「いてっ」
 夢の中に居るようだったのに、痛みを感じた途端、
目の前の景色が圧倒的な現実味を伴って彼を出迎える。
 ムーンは船首から階段を駆け下り、甲板上を船尾へと走った。
途中で立ち止まると、左舷から身を乗り出す。


 みんなの故郷が本当に『浮遊大陸』だった、と分かった瞬間だ。
 以前、実際に大陸の端っこに立って地面が断ち切れているのを見た時も我が目を疑った。
…が、このスケールの大きさはどうだ。
どこまでも広がる空に、『常識など気にしない』とばかり、
故郷の土地がどっしりと腰を据えて浮かんでいる。
なんて型破りな空中浮遊術だろう。
「……」ムーンはまだ目を大きく見開いたままで、感嘆の溜め息を漏らした。
「すげえよ、デッシュ…」思わず、所縁(ゆかり)ある友の名を呼ぶ。
「凄いねえ…!!」
 いつの間にか追いかけてきたポポが歓声を上げた。キャンディとアリスもだ。
「本当に凄い。世界って広いな…まだまだわからないことだらけだ」
「嘘みたい…。見てよ、大きな海!島影も、なんにも無いわ」
 その通り。浮遊大陸を擁する大空の下には、これまた大きな海原が広がり、
飛空艇エンタープライズ号とその乗組員たちを悠然と迎え入れたのだ。
 『この世界の全てを、解き明かせるものなら解き明かしてごらん?』とでも言われている気がする。
四人は沸々と出てきた好奇心と高揚感に、頬を上気させて叫んだ。
今なら、どこまでも行けそうだった。
 ――ところが。
 三日、四日と過ぎ、エンタープライズの面々は、揃って困惑顔を見合わせることになった。
 行けども行けども、果てしなき大海原しか無かったからだ。
ある日の昼下がり、水空両用の飛空艇はプロペラを折り畳み、帆も巻き上げた状態で着水していた。
一部の乗組員が、四人と共に船長室に集まっている。
「そろそろ、『十字岬』とやらが見えてきてもいいはずなんだが…」
 と、船長ビッケ。
「まっすぐ東、でしたよね…」
 シドから譲り受けた(くう)()をテーブルに広げたキャンディが、(うな)る。
羅針盤(らしんばん)が狂ったか?」
 ムーンが言うと、アリスが、したり顔で異論を唱えた。
「いいえ、合ってると思うわ。極点の星が、ずっと九時の方向に見えるもの」
「よう、セト。この船の『風守』としちゃあ、どう思う?」
「進路に問題は無いと思う。風も吹いている。しかも順調に西から」
 ビッケの問いに、セトは答えた。

「でも、おかしいですよ」と機関士ジェリコ。
「エンタープライズの推力なら、もうとっくに着いてるはずです」
 このまま、どこにも辿り着けなかったらどうしよう? そんな不安が頭をもたげはじめる。
何かが違う。浮遊大陸の上とは、何かが。
じっと考えて、
「…そうだ!」ポポが叫んだ。「ねぇ、カモメ。カモメに会った? 浮遊大陸を出てから」
「そういえば、見てない。確かに妙だな…」
「魔物も出てこねーな…海の中には居るのかもしれないけど」
「そうね…。楽だって喜んでたけど、ここまで静かだと、なんだか怖いわ…」
 頭を突き合わせる四人組。風守のセトが、ふと思い立ち言った。
「もしや、生きている者が居ないのか? ここには」
「怖いこと言うなよ。くわばら、くわばら」
 両手を擦り合わせたビッケだったが、気を取り直して訊ねる。
「アリス。お前さんは『風の巫女』なんだろ? 『風』は、お前さんに何か言わねぇのか?
『東へ行けー』とか、『もっと南だー』とか」
「残念だけど、風のクリスタルは、そういった指示はしてくれないの」
「あっ」名案を思いついた、とムーンが顔を輝かせた。
「〈テレポ〉は? 前に、『長老の木』ごと移動しただろ、お前」
「あれは、ハインの魔法陣があったから出来たのよ。
悔しいけど、あんな大規模な移動、あたしじゃ無理。
それに、移動するには、目的地のイメージが大事なの。
こんな所、海しかイメージできないもの。下手に〈テレポ〉で飛んで失敗したら、一生
異次元を彷徨(さまよ)うことになりかねないんだから」
 それを聞いて考え込んでいたセトが、はっと顔を上げる。
「アリス」
「なに? おじさま」
 明らかにコロッと声色を変えた妹に、ムーンは呆れた。
「〈サイトロ〉では駄目か? 少々、不毛な気もするが」
「あっ、それなら…! さすが、おじさま!」
 〈サイトロ〉とは、視界を広げて周囲を確認することができる〈白魔法〉だ。
視覚だけを高い位置に持って行き、鳥のように上空から地形などを確認できる。
「文字通り雲を掴むような話ですが、やってみる価値はありそうですね」と、ジェリコ。
「俺の荷物の中に、『小人のパン』があります。使いましょう。
あれなら、白魔道師でなくとも探索できます」
「砂の中のダイヤよりは、海に浮かぶ島の方が見つけやすいさ…たぶんな」
 ビッケは皮肉を言った。
「何はともあれ、善は急げだ。アリス、今からやってみてくれねぇか」
「分かりました、船長」
 アリスは使命感に燃え、答えた。丁寧語になっている。彼女はすぐさま甲板へ出ると、
三人の兄とセト、ビッケ、そして多くの船員が見守る中で、杖を手に呪文を唱えた。
「〈サイトロ〉!」
 瞬間、アリスの視覚は遙か高みへと飛んだ。自らの頭を見下ろしたと思うと船がぐんと小さくなり…
鳥が見ているだろう景色が認識できる。
潮風を近くに感じた。まるで、風と一体化してしまったようだ。
潮の香も、心なしか強くなったように思う。
 ヒュルヒュルと耳に届く風の音を受け容れながら、やがてアリスは、
世界を見下ろす星の一つになったような気さえした。…だが、その表情が焦りに歪む。
「ちょっと…何よ、これ…!」
 と独りごちた彼女に、見守っていた面々が、怪訝そうな…あるいは心配そうな顔をする。
「どうした?」
 集中を途切れさせてはまずいだろうか、と声を掛けるのを控えていたビッケが
、思わず(たず)ねる。それを受け、アリスは呆然と(つぶや)いた。
「なんにも無い…」
「どういうことだ?」
 どうもこうも、言葉通りだ。
魔法の効力限界まで高く視線を飛ばしてみたが、見えたのは、ひたすら広がる海。
どこまで行っても、島影一つ見当たらない。
 魔法を中断してカッと目を開いた彼女に、周りを囲んだ男共がビクつく。
 同じく〈サイトロ〉を唱えたであろう風守のセトも、困惑顔でビッケを見た。
 アリスは途方に暮れてしまった。
「こんなのってあり? いくら何でもおかしいわよ! ねえ!?」
 と、船上の仲間たちを、ぐるっと振り返る。
「誰か教えてよ」
 仰いだ天も、海と同じ紺碧(こんぺき)に染まっている。
 アリスは堪らず杖に縋(すが)ってよろよろ前のめりになり、やるせなさを全部風に託して叫んだ。
「あたしたち、どこまで行けばいいのよーーっ!!」
 声は空しく響き渡るのみである。


 こうして海上を彷徨(さまよ)うこと数日。移動しては現在地を確認する作業が続いた。
白魔法の使い手は〈サイトロ〉を駆使し、それ以外の者は交替で小人のパンを一口ずつ(かじ)る。
風を読み、図面から推測して潮流(ちょうりゅう)を探し、星の位置を確認して、懸命に陸地を探した。
 何日目か再び船室で開いた会議の場で、
機関士のジェリコは大きな四角テーブルの上に手をついて身を乗り出し、発言した。
「やっぱり、おかしいです! もう十日ですよ。
いくらなんでも、こんなに長いこと目的地に行き当たらないなんて。
せめて岩礁とか、浅瀬とか…島影くらい見えたっていいじゃないですか?」
「だよなあ」と、船長ビッケが(うな)る。「まあ、俺たちの知ってる海より格段に
でかいことは分かったから、そもそも規模が違うのかもしれないが」
「あの…僕、気になることがあるんです」
「…何だポポ、言ってみろ」
「僕、最近ゼンさんに潮の読み方を教わってるでしょう?
ゼンさんとも話したんだけど…ここには、海流らしい海流が、なかなか見つからないんだ」
「どういうことだ?」
 問いを発したのはビッケでなく、ムーン。これには、ゼンが答える。
「うむ。普通、海にはところどころ大きな潮の流れがあってな。
それに乗ればある程度スムーズに航海できるはずなんだが…そもそも、それが見つからない。
シド爺さんのくれた(くう)()と、お前たちがアーガス王からいただいてきた古地図を
照らし合わせたら、地形から海流も推測出来ると思ったんだが。あるはずの海流が無いんだ」
「それは確かに、おかしいですよね…」キャンディが言った。
「それで僕も、気づいたことがあります。妙なんですよ」
「何が?」
「ここへ来てから、天気が崩れたことがありません。
浮遊大陸の上では、雨も降ったし、風が荒れることも度々あったのに。
『ここは、そういう土地だ』と勝手に納得していましたが…穏やか過ぎると思いませんか?」
「確かに」
「風は吹いているし、波もあります。だから、完全な(なぎ)ではない。
でも、変化に乏しいんです。空が灰色に曇ったことすら、ありません」
「なるほど。こう何も無いと、かえって薄気味悪いな…」
 航海には都合が良かったが。
 話し合いの末、海賊頭ビッケは決断を下した。
「あと三日だ」
 皆がビッケを見る。
「あと三日探して何も無ければ、一度体勢を立て直しに浮遊大陸の上に戻る。食糧なんかも
心許なくなってくるからな。行くも帰るも出来なくて、大海原で干涸らびるのはごめんだ」
「了解しました」

 当直を終えたムーンは、その日も仲間たちと船室で雑魚寝(ざこね)した。
乗船したての頃に苦しくて仕方の無かった船酔いは、今や、ほとんどしなくなっていた。
自身が慣れてコツを掴んだか、はたまたあのオヤジの容赦(ようしゃ)ない教育のおかげか。
 穏やかな海に揺られて軋む船体の向こうに、ザザーン、ザザーンと打つ波音を心地よく感じる。
 これから大冒険が始まるはずなんだ、とムーンは思っていた。
アーガス王の話じゃ、この海の果てのどこかに、必ず水と土のクリスタルがあるのだから。
 ――『見事だ』
 あの時、王は言った。
 ムーンは兄のキャンディと共に、アーガス城に滞在している間中、
剣術と騎士(ナイト)の心得を教わっていた。
稽古の最終日、ついに今まで一度も勝てなかった近衛(このえ)騎士(きし)パーシーを打ち負かし、
ムーンは調子づいて言ったのだ。
「これで俺も、騎士(ナイト)の仲間入りができますか!?」
「な、なにおう!?」
図々しい奴、と怒るパーシーと、
「そうだな…。筋がいいのは認めるが、
たった数週間で一人前になられては、苦節十年以上の我らの、立つ瀬が無い」
と苦笑する、彼の相棒グウェイン。
 アーガス王は声を立てて笑い、ムーンを諭した。
騎士(ナイト)とは、弱きを助け、人々の安寧のために尽くす者。…正義を貫き、強く優しくある者。
そなたは、このアーガスで誓いを立てて良いのか?」
「え、えーっと?」
 困惑して振り返ると、兄キャンディは面白そうにこちらを見て、言った。
「ここで騎士(きし)叙勲(じょくん)を受けるということは、
『アーガス国に対して尽くします』って宣言するのと同じことだ」
「あ…」
 ムーンは迷った。
光の戦士として世界平和を取り戻し、アーガスの人たちに喜んでもらえるなら、
こんなに嬉しいことはないが…アーガス国の専属になってしまうのでは、ちょっと違う気がする。
 王は、ムーンの表情の変化を正しく読んだ。
「国に忠誠を誓うだけが騎士道ではない。
そなたが本当に守りたいと思うものが見つかるまで、誓いはとっておきなさい。
今はもっと広い世界を見て、見識を高めなくてはな。
そなたは、まだ若い。焦らず、じっくり経験を積むといい」
 そうして王は旅立ちの日に、ムーンに一振りの剣をくれた。
いにしえより、代々王家に受け継がれてきた『王者の剣(キングス・ソード)』を。
「こんな大事なもの、俺がいただいちゃっていいんですか!?」
 ムーンはもちろん、彼の兄妹も驚いたものだったが。
「せめてもの、はなむけだ。旅が終わって気が向いたら、また持ってきてくれ」
 そう言って、王は笑ったのだった。――
「……」
 ムーンは王の笑顔を思い出し、ごろんと寝返りを打った。
 王が民の幸せのため尽くすように、
近衛騎士が王や民を守るように、
自分は何に対して誓いを立てようか?
『光の戦士』になった時点でクリスタルの意思に基づき頑張っているわけだから、
クリスタルに誓うべきなのか?
まずは水か土の――残りのクリスタルの元へ行かねば。
 …などと考えているうちに、眠りへと沈んでいった。
気づけばまた夢の中、暗い海の底に居る。
自分は魚になって泳いでいて、明るい水面を目指し上るのだ。
海底には冷たく(よど)んだ泥が堆積しているが、そんなものを見ているより、光の(もと)へ行きたい。
 …と、少し離れたところに、船底の影が見えた。
(そうか。あれがエンタープライズだな)
 頭上には一筋の光の帯が通っている。沢山の魚たちが居た。…おや、亀もだ。
 ムーンは思い切って、光の帯に飛び込んだ。たちまち、体が運ばれる。
(なるほど、これが海流ってやつか)
 この流れは、周りの水より温かい。
…みんな、海流が見つけられないなんて言ってたけど、ちゃんとあるんじゃないか。
教えてやらなきゃ。
 流れに身を任せていると、彼は不思議な音の響きに気づいた。
潮騒のように、高まったり静まったりする。…音? これは人の声、歌だ。この先に、人が居る。
 それはうんと子供だった昔、祖父トパパに連れられて風の祭壇を初めて訪れた時に聞いた、
祈りの歌に似ていた。
(…うわっ!)
 ザン!!
 波飛沫。勢いのつきすぎた体が、ふいに海面から飛び出したらしい。
 ムーンの視界は急に拓け、今度は鳥の目線になる。
 ――真っ正面に、北に鎮座する極点の星。
そして、小人のパンを食べた時と同じような景色が見えた。
 こんな突拍子もないことが起こるのは、夢の中ならではだった。
(………!!)
 ムーンは思わず目を凝らした。
広い広い海の只中(ただなか)で、小さな島と――そこへ寄り添うように流れ着いた難破船を見たのだ。
 ひしゃげたマスト。破損した甲板の上に――人が居る!
 ムーンは、おおい、と呼びかけた。だが声は届かないし、下へ降りることも出来ない。
 その人が泣いている気配がした。
ふと助けを求めるように天を振り(あお)いだ瞳と、目が合ったと思ったのは気のせいか。
悠久の時を感じさせる海の情景に、さっきから聞こえている不思議な歌が重なり、大きくなった。
「!!」ムーンは、がばと起き上がった。「北だ!!」
 突然の叫び声に叩き起こされ、隣で寝ていた弟のポポが、びっくりして目を覚ます。
ダナンをはじめとする仲間の船員たちも、何事かと起き出した。
「何だぁ? うるせーな」
「…。頼むよぉ~~…もーちょっと寝かせてぇ~…」
 フェルが、そばかすの浮いた顔を毛布で隠す。
 ムーンは皆の苦情を一切無視して船室を飛び出し、甲板へと駆け上がった。
「船長、北だ!!」
「あん? 何言ってやがんだ」
 ビッケは、風守のセトと今後の相談をしていたところだった。
この突拍子もない言葉に眉をひそめたが、ムーンがあまりに真剣なので話を聞くことにする。
 ムーンは、言った。
「こっから北に島がある!
船がその近くで座礁してて、誰か乗ってる!
夢で見て…ただの夢だけど、もしかして、それだけじゃないかもしれない」
 ムーンとて、こんな状況でなければ「ただの夢」で片付けてしまっただろう。 
が、ビッケはもうそんなムーンの性格をよく分かっていたし、
セトはセトで、以前ムーンがネプト竜から水の牙を授かったところを見ていた。
そんな少年が、これほど必死に訴えるということは、何かあるのかもしれない。
もとより今は、手掛かりも無い。
「ジェリコ!!」
ビッケは、すぐ側にあった伝声管に向かって怒鳴った。
角笛型の通話口から伝わってくる声と音で、慌てて起き出したのが分かるのだった。
「飛空艇モードに移行しろ! 北へまっすぐ、全速前進!!」
「はっ、はい!!」


 その老人は、晴れ渡った空を見上げて途方に暮れた。
 ――今日もまた、日が昇った。
 遭難したあの日から、およそ一年。この難破船の上から、どこにも行くことが出来ずに居る。
 老人は船乗りだった。
巨大都市サロニアから水の街アムルまで物資を届ける輸送船が、彼の仕事場だった。
あの日は彼にとって最後の航海で、
これを終えたらアムルに居る家族の元へ戻り、穏やかな余生を送ろうと決めていた。
 ところがあの日、嵐でもないのに突然、海が荒れた。
それまで凪いだように見えていた海面が急に激しく上下して、
いまだかつてない大波が船を襲ったのである。
その規模ときたら、かの海竜リヴァイアサンが怒り狂ったようだった。
 老人はその時、見張り台のてっぺんに居た。
 船は港を離れ、既にかなり沖へと来ていた。沿岸の様子は確認できない。
そもそも地震が原因の津波ならば、陸上より海上に居た方が、まだ安全だ。
そのはずが…これはどうしたことだろう。このままでは転覆してしまう!
 船は第一波を辛うじて耐えたが、すぐに第二波が来た。
 老人は船の一番高い所に居たのに、しょっぱい水をしこたま飲む。
 見張り台から放り出されては堪らないと必死にマストへしがみついた彼に、
手近にあったロープが巻きついた。
あわやロープに絞められるか、船から振り落とされて溺れるか。老人は覚悟した。…が。
 何度も襲いかかる波に必死に耐え、どれだけ経っただろうか?
 ふと気がつくと、大波も揺れも収まっていた。
「……」
 ほっとしたのもつかの間、船は座礁(ざしょう)していた。
 甲板に居た人間が残らず大波に攫われるのを見たが、船内には誰かが無事で居るかもしれない。
老人は船室に降り仲間を捜し回ったが、徒労(とろう)に終わった。
一人くらい倒れていてもいいはずなのに、そこには誰かが居た形跡すら残っていなかったのだ。
波が、生きていた人間の気配すら洗い流し、跡形も無く消し去ってしまったように思った。
船乗りの間でまことしやかに語られてきた怪物、クラーケンを思い出した。
巨大なクラーケンは、イカかタコのような足で船を止め、
海中に引きずり込んだ人間を喰らうというのだ。それが真実かどうかは、
想像の範疇(はんちゅう)を出なかった。そんなことよりも、差し迫った大問題が発覚する。
 老人は、自身の経験と知識を総動員して状況分析したが――
まず、今自分が居るこの場所が、海図のどこに当たるのか分からない。
次に、助けを求めようにも他の船はいっこうに姿を見せない。
どうやら助けが来そうもないと悟ると、我が身の無事を素直に喜べなくなった。
同時に、途方もない孤独感に(さいな)まれた。
「こんな思いをするくらいなら、自分も海の藻屑と消えてしまえば良かった」
…そのように思い詰め、とうとう壊れかけた舳先(へさき)に立って飛び込もうとした時、
板きれにしがみついて漂流していた娘を見つけたのだった。
 老人は娘を無我夢中で助け上げ、娘に意識があると分かって安堵した。
 娘はまだ少女と言っていい年頃に見えたが、いやにしっかりしていた。
 素性を尋ねると、「水の神殿の巫女エリア」と名乗った。
 老人は驚いた。
彼の故郷アムルこそは、水の神殿の膝元にある街――そして当の神殿は、
彼の先祖でもあるバイキングたちが、遙か昔に
水のクリスタルの啓示を受けて建造したものだったからだ。
 当然、水の神殿はクリスタルと同様に信仰されており、
神殿へ仕える人々も俗人とは違う、畏敬の対象だった。
 中でも巫女と言えば、最も特別な存在だ。
 クリスタルに()(いだ)され、クリスタルに魂を寄り添わせて、心通わせる人間。
巫女はクリスタルを通し、常人には手の届かぬ次元で、様々な事を知り得る。
そして、世界とそこに暮らす人々の安寧のために祈るのだ。
 確か、神殿側が幼い女の子を新しい巫女として選定したのが、今から十年と少し前。納得はいく。
そのエリアから「大地震で、大陸が海に沈んだ」と聞かされた時には、さすがに絶望した。
「助けは、本当に来るだろうか…?」
 たびたび不安感をあらわにする老人に、
エリアは十五の歳とは思えぬ落ち着きを保ち、微笑むのだった。
「ええ、必ず来ます。それまで頑張りましょう」
 と、白い両手で老人の皺だらけの手を取り、優しく包む。そして、ぎゅっと握った。
 どちらの手も指先は冷たかったが、手のひらには温もりがあった。
 それからお互いに支え合い、励まし合って生きてきたのだ。
「人間、こんな海の上で本当に(ひと)りになったと思うと、気が狂いそうになる。
あんたが生きていると分かった時は、心底救われた気がしたよ」
 ある時老人がそう言うと、エリアは静かに首を横に振った。…やはり微笑む。
「助けていただいたのは私の方です。
おじいさんが居てくださって、どれだけ心強いか分かりません」
 一緒に居ることで、明日への希望が持てた。
 彼女が笑ってくれるから、自分も笑顔になれた。
 大型船が物資を満載していたおかげで、最低限の衣食住が確保できたのも、有難いことだった。
だが、一方で不安は尽きなかった。
(――いつまで()つか)
 今日も老人は、船室に降りると、わずかに残った食糧の中からオートミールを皿に入れ、
少しの水でふやかした。それをトレイに載せ、エリアの居る部屋へと持っていく。
「起きているかい?」
 小さく返事がある。
「具合はどうかの? 食事にしよう」
 …水の巫女エリアは今、病床に伏していた。
長きにわたる船上での生活と、じわじわと悪化した栄養状態が原因だと言っていい。
熱に浮かされた彼女は、潤んだ瞳を老人に向けた。


 ――夢の中で、エリアは幼い頃の自分に戻っていた。
 まただわ、と思う。この船に漂着してから、繰り返し繰り返し見てきた夢だ。
 昔、うんと幼かった頃の夢。
エリアはアムルの街へ奉仕活動に出向いた折、拠点の宿に帰れず迷子になったことがあった。
 歩き疲れて座り込んでいると、とっぷり日が暮れてくる。
 エリアは『水守(みずもり)』の言葉を反芻(はんすう)した。
――『アムルで道が分からなくなったら、水音がする方へいらっしゃい。
そうすれば、必ず人の居る所に出ます』
 そこで、彼女は歩いた。水音に耳を澄まし、一心不乱に。
 そして、無事に帰れた…あの時は。
 しかし、この夢の中では歩けば歩くほど闇が濃くなり、道も分からなくなる。
(おお)巫女(みこ)さま、みんな。どこ…?)
 ついに幼いエリアは倒れ伏し、必死に堪えていた涙を溢れさせた。
すると、どう、と音を立てて足元が崩れる。水のクリスタルが地中に呑みこまれていく幻を見た。
 世界は猛々(たけだけ)しく咆哮(ほうこう)し、『土』は、突如(とつじょ)生じた大きな力に従って激しく変化した。
その『土』を助け衝撃を緩和しようと、『水』が…水のクリスタルが、同調したのが分かる。
 世界が壊れゆくのを食い止めるため、『水』は奮闘した。
 清流が、目の前で泥流へと変わる。水のクリスタルの光が、急速に失われるのが分かる。
 お願い、とエリアは訴えた。
(おねがい…! やめて。誰か、止めて…!!)
 『水』が光を失い、世界が壊れてしまっては、何もかもおしまいだ。
 だが、側に誰かが現れる。
――『いや。まだだ』
(光が…)
――『残ってる。ほら、ここに』
 その人影はエリアに何かを差し出して見せたが、
エリアは差し出されたものより、その誰かの存在自体に、探し求めたクリスタルと同じ輝きを感じた。
 ああ、本当だ。どうか、どうか光が残っているうちに。
――『だいじょうぶ。大丈夫だ』
(お願い…)
 エリアは語りかけた。近くて遠い誰かに。
(お願い)
 光を消さないで、と。
――『うん…わかった』
(………!)
 エリアは、涙に濡れた顔を上げた。――(まぶ)しい。なんて頼もしい光だろう。
――『わかった。だから――泣くな』
 温かな腕で、力強く抱き締められたと思った途端、放された。
 視界いっぱいに光が拡散する。
 …もう何度も見た夢だ。
 最初は暗い闇に呑まれて目が覚めていたが、
やがて光を宿した誰かが現れるようになり、近づいてきて、励ましをくれるようになった。…そして、今。
 その存在はより確かなものとなり、輝きを増してエリアのすぐ近くへ来た。
「…………」
 夢から醒めると、エリアの目に優しい老人の顔が映った。
「エリア…」
「…おじいさん」
 像が歪むのは、熱のためか、涙のためか。
しかしエリアは、夢の中のように泣き顔を見せてはいなかった。そんな自分に、自分で、安堵する。
 どうか、そんな心配そうな顔をなさらないで。私は、大丈夫ですから。
「大丈夫ですよ…」
 私も、あなたも。
「そんな身体で、大丈夫なわけがあるかい」
 老人は(しわ)くちゃの顔をゆがめて言った。
 エリアは思う。…ああ、こんな顔をさせてしまった。大切にしたいのに――笑顔になってほしいのに。
「大丈夫です…」と、彼女は繰り返した。「もうすぐ、光がやって来ます」
「光? クリスタルのことかい?」
「………」
 彼女は、そっと頭を動かした。肯定のつもりだったが、同時に出そうとした声は、声にならなかった。
それでも、希望はある。
 大丈夫。光はまだ完全に消えてはいない。
 これで終わりではなかった。これから、みんなを助けるんだ。――エリアは、そっと微笑んだ。
…と、そこへ。
 パタパタパタ、と明らかに波音とは違う何かが、聞こえて来た。


 ムーンたち光の四戦士は、船長ビッケと数人の船員と共に、
海賊船エンタープライズから難破船の方へ乗り移った。
「へぇ…こりゃ、()い船ですねぇ、船長」
「ああ、そうだな。船板といい、柱といい、かなり上等な材を使って腕の()い船大工が仕上げてる。
だがこの様子じゃ、人が乗ってるかどうかは分からんぞ。
――おい、お前ら。気をつけて行けよ」
 ビッケは先を行く四人の少年少女に言った。
「はい」
「乗ってるよ、絶対!」
 ムーンはきっぱりと言い張り、躊躇(ちゅうちょ)なく進んだ。
彼には、「ここに来れば、とにかく人に会える」という確信があったから。
 一方ポポは、おっかなびっくり甲板に降り立つ。
難破船は大きく立派でその造りも頑丈そうに見えたが、メインマストが無残に折れて、
ところどころ板が剥がれかかって波に洗われている。
破れた帆は、海水をもろに被ったのか――あるいはあまりに長いこと潮風にさらされていたのか、
かなり傷んでいた。
「誰か居ますかー? お化けなら、出てこなくていいからね~」
「大丈夫よ、ポポ」
 アリスが笑った。
 辺りを見回していたキャンディは、声を張り上げる。
「どなたかいらっしゃったら、返事してください!」
「助けに来たぞ! 居ないのか!?」
 ムーンは壊れた木の階段を三段抜かしで飛び降り、ズカズカと奥へ向かった。
だが、難破船内は静まりかえっている。ここには結局、誰も居ないのだろうか?
――ムーンが落胆しかけた時、バン! と扉が開く音がした。
床板が(きし)み、足音が近づいてくる。
ムーンは少し(ひる)んだが、背中に帯びた『王者の剣(キングス・ソード)』に手を掛ける間も無く
足音は()んだ。
 暗い廊下の向こうから現れた老人が、驚きに瞳をめいっぱい見開いて言う。
「……。人か…!?」
 思わずもう一歩、ふらりと踏み出し…慌てて駆けてきてつんのめった彼を、
ムーンは咄嗟に飛び出して支える。
「爺さん、しっかりしろ!!」
 ムーンの声を聞いたキャンディ、アリス、ポポの三人も、足早にやってきた。
 痩(や)せさらばえた老人の手首を、アリスが取った。…大丈夫、脈は正常だ。
「水を」
「う、うん!」
 妹の声に応じて、ポポが皮水筒の口を開ける。
「シャルさんにも知らせてこよう」
 と、キャンディがとって返した。その背に、
「お願い!」とアリスは叫んだ。「あと、何か食べ物を」
「ま…待ってくれ…!!」老人は、やっと人に会えた安堵感と、
込み上げてきた空腹感でふらふらになりながらも、全力で言葉を絞り出した。
「奥に…まだ、娘が寝ておるんじゃ。儂(わし)よりも、その子を先に! 助けて、やってくれ…!!」


 一目見て、アリスはその少女のことを、妖精や精霊の(たぐい)かと思ってしまった。
…というのも、彼女は確かにそこに居るのに、まるで今にも消え入ってしまいそうなほど
(はかな)げな印象だったからだ。
 少女は、肌が抜けるように白かった。癖のない長い髪も、色素の薄い金色。
熱に(あえ)ぐ息づかいは、か細く(かす)かで、なんだか薄幸(はっこう)そうに見えた。
 アリスは病床の少女の額に手を当てると、誰にともなく言った。
「熱が高いわ…」
 このままでは危うい。
 まず汗をかいた分、水分補給をさせなくては。飲めるだろうか?
 アリスは水薬服薬用の陶器に飲み水を移すと、細長い吸い口を少女の口元に寄せて声を掛けた。
が、反応が無い。自力で飲み込むのが難しいと判断したアリスは、
常備していた煮沸(しゃふつ)消毒済みの木綿布を細く絞り、飲み水に浸した。
布の先端がたっぷり水を吸ったところで、それを少女の口に含ませる。
 少女はやはり水分を欲していたのか、アリスの狙い通りに応じた。
 わずかに唇を動かし、それを吸う。
 アリスが何回か繰り返して水を飲ませる間に、ポポが〈ブリザド〉の魔法を加減して(ひょう)(のう)を作り、
ムーンが新しい毛布を運んできて替えた。
 キャンディが船医を読んで戻ってきた時には、ひとまずの処置が済み、ほっと一息ついていた。
「一人前に出来てるじゃないか」
 船医の口調は、そっけない。だが、
彼女が心から認め褒めてくれているのを感じ、アリスは頬を上気させた。
「シャルさんのおかげよ。教わった通りにやったの。〈ライブラ〉もしたけど」
 見極めの魔法は診断に有用だ。そうか、と笑った船医当人も、まんざらでもなさそうだった。
彼女はアリスに、綺麗に畳んだ白いローブを差し出した。
「君の着替え。話聞いたら、必要かと思って」
「ええ、ありがとう! この子に着せてあげたいの」
「了解。…さて、諸君らは退出、退出」
 慌てて回れ右する少年たちだ。
 男性陣を全員廊下へと追いやった船医シャルは「ああ」と思い出したように声を上げ、
ムーンに甘い香りのする瓶詰めを手渡した。
「これ、お土産」


 シャルにもらった瓶詰めの中身は、果物のシロップ漬けだった。
薬効のあるハーブも一緒に漬け込まれており、香りに清涼感が加わっている。
 「難破船に生存者が居た」と聞き、船長ビッケと共に、彼の女房役ジルまでやってきた。
エンタープライズの厨房で作ったミルク(がゆ)の鍋を、難破船のダイニングへ運ぶ。
疲れきっている難破船の老人のために、
三人の少年たちが船内の台所から食器を見繕い、ジルと共に食卓を整えた。
 老人はミルク(がゆ)をあっという間に平らげ、甘い果物をいかにも美味(うま)そうに味わった。
アリスが少女の看病を船医シャルに任せてやって来る頃には、
疲労と不安に暗く沈んでいた顔が生気を取り戻し、
往年の船乗りらしい、力強くも穏やかな表情になっていた。
 食後にアリスが()れた薬草茶を一口(すす)ると、
老人は満足そうに息をついて、丁寧に言葉を探りながら話しはじめた。
「何から話そうか。(わし)は…」
 ――老人は語った。自分が船で働いていたこと。
そして、ある日その船が、海難事故に遭ったことを。
「大地震が起こった直後に、世界は海に沈んでしまった…。
ちょうど船に乗っていたんで、(わし)は助かったんじゃ。が、仲間は残らず波に(さら)われてな…」
「それで…まさか、みんな?」
「ああ。誰一人、助けられなかった…!!」
 老人は心底悔しそうに苦しそうに、重い口調で呟いた。
表情を形作る筋肉がきゅっと動き、(しわ)を一層深く刻んで際立たせる。
「生き残ったのは(わし)と、奥に寝ている娘だけじゃよ。
あの()は、板きれにしがみついて漂流していたんじゃ」
「お爺さんのお孫さんかと」
「いや、違う。あの子は、水の神殿に勤める巫女だそうだ。
水のクリスタルに仕える巫女…名は、エリア。そう名乗った」
「えっ!?」
 ――水の巫女。
 ムーン、ポポ、キャンディ、アリスの四人ともが、そして同席していた船長ビッケと
その女房役ジルが、驚いた。
 一方、老人は微笑む。
「あの子は、いつも笑顔で、(わし)を励ましてくれた。
だからこそ希望を捨てず、今まで生きてこられたんじゃ」
「お爺さん」キャンディが身を乗り出した。
「僕たちの故郷には、風のクリスタルを奉る祭壇があります。
でも、大地震で、祭壇ごと地中深く沈んでしまいました」
「んで、俺たちは風のクリスタルに選ばれて、世界を救いに来たんだ。
『光の四戦士』って呼ばれててさ」
ムーンは、どこか得意げに話しながら、妹を指さした。
「おまけに、こっちは『風の巫女』だ。詳しくは俺も分かんねーけど、
寝込んでるあの子と話せれば、何か出来ることが見つかるんじゃねぇかな?」
「な…なんじゃと…!?」
 アリスは次兄を一瞬ジト目で見たが、すぐに気を取り直して老人を見つめ、
その骨張った手を両手で取った。
「あたしは、白魔道師です。今、船医の(ねえ)さんが看てくれてて、詳しいことが分かってからだけど…
いい薬があるの。エリアさん、治せると思う」
 彼女は老人を安心させるように、握った手に力を込める。
「なんと…!」
「いきなり来て、こんな話して、信じられないとは思うけど」
 おずおずとポポが言い添える。しかし老人は、いいや、と首を横に振った。
「あの子の…エリアの言った通りだった。ひ、光が…『光がやって来る』と」
――(ぼう)()の涙を流し、 しゃくり上げる。
「来てくれて、ありがとう…!!」
 ―― 一年。
 あの時、自ら命を絶たなくて良かった。希望を捨てずに、明日を信じて生きてきて良かった。
「………」
 こちらを覗き込んだ白魔道師の少女が、瞳を潤ませながら笑顔で頷く。
 それは老人の中で、共に過ごしてきた巫女エリアの笑顔に換わった。
 老人が頭を上げると、三人の少年たちもまた、力強い笑顔で頷いたのだった。


 やがて何とか落ち着いた船乗りの老人に伴われて、
光の四戦士は、水の巫女エリアの居室を再び訪れた。
海賊船エンタープライズの船医シャルが振り返る。
「アリス。君の診断通りだと思うよ。彼女の倒れた原因」
「そう。それじゃ…」
「疲労と栄養不足。…そこに朝晩の気温差があって、風邪をひいたってところだろうね」
「なんだ、風邪か」
 ムーンはホッと息をついたが、アリスとシャルの表情は険しいままだ。
「風邪が一番厄介なのよ。実は、特効薬が無いんだから」
「そうだ。症状の緩和は出来ても、あくまで『その時々での対処』でしかない。
ましてや、こんなに体力が低下した状態だから」
「『風邪は万病の元』というわけですね…」と、キャンディ。
「でも…じゃあ、どうするの?」
 ポポの問いを受け、シャルはアリスを促した。
 アリスは自分の治療鞄の中から、厳重に封をされた赤い容器を取り出した。
薬の研究開発をしているシャルの姉・ヘザーから譲り受けたものだ。
二つあるが、これらは二つとも偶然の産物だという。ゆえに、とても貴重だった。
「万能の薬。エリクサーっていうのよ」
 ごく短く説明する。
――『これなら、どんなに弱った患者も、たちどころに回復するわ』
――『使いどころは、貴女(あなた)になら分かるわね?』
 アリスは、ヘザーの言葉を思い出した。
(ありがとう、ヘザーさん。早速、役に立ちそうよ)
 彼女は二つのエリクサーのうち、片方を開封した。
金色の星模様があしらわれた蓋を開けると、中身は粉薬だった。
水を飲むのにも難儀していた患者に、このまま与えるのは(こく)だろう。
シャルが飲み水を用意してくれたので、アリスは調合用のスプーンを使って薬を溶く。
シャルが患者を抱き起こした。
 アリスは、水を飲ませようとした時と同じように陶器の吸い口を少女の口元へ持っていき、囁いた。
「さあ、エリアさん…飲める?」
 これで駄目なら、また布に含ませるしかあるまい。
しかし今度は、こくりと喉が鳴った。アリスが、ぱっと笑顔になる。
「よーし、偉いよ」とシャル。
「もう一回。もう一回よ」
 アリスの声に懸命に応じ、彼女はエリクサーを飲みきった。
 安堵の声と溜め息が、見守っていた全員から()れる。
 それから交替で様子を見ることになったが、老人も四人もエリアの様子が気になって、
結局ちょくちょく難破船の船室に足を運んでしまうのだった。
 やがて皆の願いが通じたのか、彼女――エリアが目覚めたのは、
老人と船医シャル、そしてムーン、ポポ、キャンディ、アリスの四人共が集まった、
その日の晩のことだった。
「おお、エリア…!」
 老人が涙混じりで声を上げた。
 うっすらと目を開けたエリアは、たまたま目の前にあった、
ムーンのエメラルドの瞳に焦点を合わせる。ぼんやりと(つぶや)いた。
「あなたは…」
 そして、たちまち我に返る。
「こ、ここはどこ? えっ! あなた方の心の中にある、その光は…!」
 横になったまま首を巡らせて、少々混乱してしまった様子のエリア。
 アリスはムーンを押しのけて、彼女のすぐ近くに寄った。
 キャンディとポポも、ベッドの側に来る。
「初めまして、エリアさん。あたしは、『光の戦士』兼『風の巫女』のアリスです。
それからこっちは、あたしの三人の兄で…キャンディ、ムーン、ポポよ」
「キャンディです」
「ムーンだ。よろしくな!」
「ポポです。具合はどう?」
 エリアは驚いたまま、この四人の顔を確認した。
医者らしき女性の隣で瞳を潤ませつつにこにこ頷く老人を見つけると、ほっとする。
再び四人の少年少女に視線を移した。
「あなた方は、クリスタルに力を授けられた戦士…クリスタルは、戦士を選んだのね。よかった…」
 そう言って、エリアは微笑む。そして、やおら上体を起こそうとした。
 アリスが慌てて手を貸して支える。それから、薄桃色のカーディガンを彼女の背に掛けてやった。
 エリアはアリスに「ありがとう」と言い、居住まいを正すと、自己紹介した。
「『光の戦士』の皆様ですね。危ないところを助けていただいたようで、どうもありがとうございます。
私の名前はエリア。水の神殿の巫女です」
 何とも浮き世離れした少女だ。
老人の言通り、エリアにはもう四人が何者か分かっているらしかった。
「一体どうしたんだ?」
 ムーンが早速、本題に入る。
「…土の力が、あの大地震を起こしたのです。
そして、水のクリスタルは地中深く沈みました。土の力に引き込まれたのです」
「土の力に…?」と、()(げん)そうなキャンディ。
「それは…風と火のクリスタルも、同じだったわ」と、アリス。
 エリアは小さく頷き、続けた。
「私は地震の瞬間、水のクリスタルが伝えてくれたことを目の前に見ることができました。
水の力に護られていた人々は石にされ、大陸は海に沈みました。
…けれど、水の神殿は辛うじて難を逃れたようです。――感じるのです。
水のクリスタルのかけらが、弱いながらも安定した光を投げかけてくれているのを」
 エリアは、四人が抱いた「どうしてそれが分かるの?」という疑問をも回収して
答えまで説明すると、お願いです、と訴えた。
「私を、水の神殿に連れていって! …そこにある水のクリスタルのかけらを、
沈んでしまったクリスタルに捧げれば、呪いが解けるかもしれない…」
「でも、その身体で…」
「そうよ、許可できないわ!」
「大丈夫です。それより世界を救わなければ…」
エリアは、途中で出てきた(せき)咄嗟(とっさ)(こら)えた。
アリスが眉をひそめたので、背筋を伸ばして()(ぜん)とした姿勢を示すことで、
無言の内に説得を試みる。
「お願い! 私を、水の神殿に連れていってください」
 エリアは、四人の中で一番年かさと見たキャンディに向かい、再び頼んだ。
そして、後の三人も見渡す。
 暫し沈黙が落ちたが、その後、難しい顔をしていたキャンディが請け合った。
「分かりました」
「「「!!」」」
 驚きと抗議の意を(あら)わにした弟と妹。しかし、これで話は決まった。
「ありがとう!!」
 エリアは感謝に満ちた眼差しで、自分の両手を祈りの形に組み合わせた。
――そうと決まれば、早速事を起こさねばなるまい。手遅れになってしまっては困る――
彼女はベッドから起き出した。
「えっ、ちょっと!!」
 それを(とど)めようとしたアリスに、笑顔と手の動きでやんわりと断りを入れ、立ち上がる。
…だが、思ったより長いこと寝込んでいたのだろうか。エリアの両足は、いうことをきかなかった。
力が入らず、そのまま前のめりに倒れ込む。
「うわっ!?」
 慌てて伸ばしたムーンの腕が、すんでのところでエリアを抱きとめた。
 瞬間、ムーンはどきりとした。
(――細い)
 なんて華奢(きゃしゃ)なんだろう。うっかり力を入れたら折れてしまいそうで――
そのくせ腕に伝わる感触はしなやかで、柔らかい。
 ムーンは、自分でもびっくりするくらい焦った。
 違う違う。ここは、ほっとする所だろ? 怪我とか、させずに済んだんだから。
 しかし心臓は落ち着きを取り戻すどころか、どきんどきんと早鐘を打つばかりだし、
頭はぐるぐる混乱している。
言わんこっちゃない、と怒るアリスの声は心音の向こうで遠いのに、
すみません、と謝るエリアの声は、いやに近くで聞こえる。
一瞬だけ彼女の全体重を預かったムーンの耳には、彼女の体温と、
(ひそ)やかな息づかいが感じられた。
 気をつけろよ、と返した自分は、果たしていつも通りに喋っていただろうか。分からなかった。


 ひとまずエリアを休ませると、
少年たちは船長ビッケに事の次第を説明するため、老船乗りを伴ってエンタープライズ号へ戻る。
 この状況下、二人を連れて行くことをビッケはもちろん許可した。
 特急で受け容れ準備が整い、アリスは寝袋を抱えて、ジルやシャルと共に使っていた船室から
救護室へと移動する。
 船内でも一番快適なベッドがあるここへエリアを呼び、自身は共に居て
彼女の世話をするつもりだった。
「アリス、寝袋は要らないよ。二段ベッドの上を使えば」
「でもシャルさん、それじゃ、他に患者さんが出た時に困るでしょ?」
「そうなったら他の部屋を何とかするから。
流石(さすが)にあいつらも、常識はある。エリアちゃんと同室は遠慮するでしょ?」
「そっか、そうよね。うん…じゃあ、お言葉に甘えるわ」
 エリアと共に居た老船乗りは、海賊一味の最長老じっちゃんと同室に招くことになった。
 ビッケは、彼と相談した。
「悪いが、そっちの船は諦めてくれ。さすがに、どうにもできねぇ」
「ああ。(わし)もそう思っておった。
残っている積み荷の中に使える物があれば、遠慮なく持っていってくれ」
「ありがてぇ。そうさせてもらうよ。明朝、出発できるようにはするからよ。
水の巫女さんにも、そう伝えてくれ。
このビッケ様が来たからには、水の神殿まで風より速く送り届けてやる、ってな」
「いよっ、男前!」
「船長、かっこいい!!」
 光の戦士と様子を見ていた船員たちから、口笛と拍手喝采が湧き起こる。
「ありがとう」
「気にすんな」
 深々と頭を下げた老人の背中を、ビッケは大きな手でバシバシと叩いた。
それを見たジルが、ぞんざいすぎ、と(ひじ)でビッケを小突く。
すると彼は慌てて、今度は老人を労るように骨張った肩に掌を載せた。
 ジルは小さく吹き出し、
自分より小さな相手にどうしたものかと困っている男を、愛情のこもった眼差しで見つめた。


 翌朝。老船乗りと光の四戦士に伴われてエンタープライズ号へ乗り込もうとする水の巫女を見て、
海賊たちは騒然とした。
「何だ何だ」
「おわっ…」 「なんと!」 「きれー…」
「う、美しい…!」
「女神さまみてえだ…」
 どよめく彼らに混じって、呆れ顔のジルと笑い顔のシャルが居る。
「何だい、男共ときたら。みっともないねぇ」
「まあまあ、(ねえ)さん。無理もないよ。
女の私でも、ちょっとドキッとするくらい綺麗だからねー、彼女。際立ってる」
 『目立つ』というより、『消えちゃいそう』な方のイメージなんだけど、とシャルは付け足した。
 ジルは同意した。
 水の巫女は確かに際立っていた。年若い少女でありながら、大人びているというか…
聖職者特有の、気安く触れてはいけないような雰囲気があった。
「アタシら俗人には、ちょっと近寄りがたいくらいだね」
「あの子たちは、同い年くらいの子が来て嬉しそうだけど」
「おや…本当だ。いっぱしの騎士(ナイト)ぶっちゃって」
 女たちは、くすくすと笑った。
 ムーンは、アリスと共に水の巫女エリアの両隣を歩いていた。
彼女の手を引くアリスの邪魔にならぬよう、時に後になり先になり、必要であれば手を貸す。
先頭を行ったポポが、ぴょんと渡し板から飛び移り、船長に何か説明している。
ちらと背後を振り返ると、兄のキャンディがそれに気づいて、ムーンに涼しい笑顔を向けてきた。
 海賊たちが興味津々、こちらを見ている。
みんなの視線は、水の巫女であるエリアに注がれていた。
 エリアは、盛んに話しかけるアリスに応じて、時おり笑顔を見せていた。
 とくん、と、またムーンの心臓が鳴る。
 ――へえ。ほとんど同い年の割に大人っぽいと思ったけど、笑うと可愛らしいんだ。
 『水の巫女』の名から連想した通りに清らかなこの少女を、ならず者たちの好奇の目から守るように、
ムーンは自分の背丈とマントでさりげなく隠した。
このほとんど男所帯のむさ苦しい空気に、彼女を当てちゃいけない。何せ病み上がりなんだから。
 …勝手に決めつける彼の目の前で、船長ビッケと風守のセトがエリアを出迎えた。
 船長殿、とエリアは声を掛けた。
「初めまして。水の神殿の巫女、エリアと申します。この度は数々のご温情、ありがとうございます」
 慎ましやかに挨拶をした彼女は、昨日まで病床にいたとは思わせぬほどだ。
アリスの処方したエリクサーが効いたということか。
 背筋をピンと伸ばしたエリアは、とても美しかった。
神殿で定められたという形の礼をすると、その仕草までもが、たおやかに映る。
 ビッケもそんな彼女に驚いた風だったが、そこは船長、すぐにいつもの調子を取り戻して言った。
「まあ大したことは何もできねぇが、ゆっくり養生してくれ。
どの船より速く安全に、神殿まで送り届けてやるよ」
「お心遣い、痛み入ります」
「よろしくね、船長さん!」
 アリスが、にっこり笑って念を押した。
「水の巫女殿」
 風守のセトが、ジルとシャルら――女性の乗組員を、エリアに紹介する。
 後を任せたビッケは操舵席へ戻った。その高い場所からエリアを見送ると、
傍らに居た部下に言うのだった。
「…。ありゃあ、本当に十代の娘か?」
「さあ…」


 こうして新たな仲間を加えたエンタープライズ号は、
飛空艇モードで進み、休止する時は船の形に戻って海上に着水するのを繰り返した。
 難破船から救助された老船乗りと水の巫女エリアは、エンタープライズの客として丁重に扱われた。
が、エリアより一足先に回復した老船乗りは「じっとしていると落ち着かない」と言い、
乗組員たちと共に縄を()ったり、甲板の掃除をしたり、
芋の皮を剥いて食事の準備を手伝うようになっていた。
 一方エリアは、救護室でほとんどの時間を過ごしている。
 エリアとて、ただ客として、そこに居るのは心苦しかった。だから何か出来ることを探したのだが、
それを察した船医シャルは「今の君の仕事は、休むことだよ」と言った。
「そうそう」と、アリスも同意した。
「水の神殿に着いてから、エリアさんにはいろいろお願いすることになるでしょうから、
それまではゆっくり休んでて」
 言いながら、アリスはやまびこ草を薬草棚から出した。
医務机を借り、器具も揃えて出しておく。喉の薬が切れてしまったので、これから調合するのだ。
 ――ポーション、毒消し、目薬や、やまびこ草など、一般的に売られている薬は手軽だが、
その分細かい症状に特化した効き目は期待できない。
だが医者が薬を調合すると、時間が掛かるものの、そこがカバーできる。
 アリスは、船医シャルに教わりながら、薬の調合方法も着々と学んでいた。
 咳止め薬を生成するには、まずやまびこ草を煮て柔らかくするのだが、
その前に茎の硬い部分を取り、混じっているゴミも取り除かなくてはならない。
 ふと、アリスの方を見ていたエリアが、首を傾げた。
「アリスさん。あの…やまびこ草は、
煎じる前に、葉と茎を分けておいた方が良かったのではないかしら?」
「あっ」
 そうだ。確か、シャルもそうしていた。
「おー…よく知ってるね。そうそう、その一手間が大事なんだ」
 と、シャル本人が肯定する。
 慌てて葉っぱを千切りはじめたアリスの隣に、エリアがすっとやってきた。
「こちらへどうぞ」 と、自身が使っている二段ベッドの下段を示す。
「えっ、でも」
「シーツも替えていただきましたので、綺麗です。大丈夫ですよ」
「そ、それは気にしないけど…」
 体の具合は大丈夫なのだろうか?
 …アリスが飲み込んだ言葉の続きを見事に察して、エリアは言った。
「おかげさまで、体調もだいぶ良くなりましたし。少し動きたいと思っていたんです」
 医務室は他より少し広いとはいえ、狭い船内での作業スペースは限られる。
アリスがどぎまぎしながらもエリアの言う通りやまびこ草の束を包んだ雑紙をベッドの上に広げると、
エリアは小さな椅子を一つベッドの側に寄せ、シャルから別の紙を受け取って、その上に広げた。
千切られたやまびこ草の中から、茎だけをより分ける。
 エリアとアリスは、やまびこ草の山を挟んで、二人並んでベッドに腰掛けた。
 小さな椅子をもう一つベッド側に押しやったシャルに礼を言い、綺麗にした葉っぱだけの包みを
その椅子に載せたエリアは、アリスを見て穏やかに微笑むのだった。
「手伝います」
「ありがとう…」
 アリスは、ちょっぴり顔を赤くした。
「…。調合、したことあるの?」


「ええ。小さい時から、(くす)()の先生に仕込まれて。
最初は、こういうお手伝いばかりでしたけど、結構(しょう)に合っていたのかしら。
やり始めると黙々と…それで、気づいたら引き出し一つ分の薬草を
全部(むし)ってしまったことがあって。
『こんなに沢山(たくさん)要らなかったのに!』って、怒られました」
エリアは苦笑した。
「…あの時は、咳止めばっかりワインの瓶三本分くらい出来て――
ストックもあったので、咳止めだらけ」
「へえ」
 それは多い。一体、何十人分の薬になったやら。アリスもシャルも、エリアと共にくすくす笑った。
「でもその後に風邪が流行(はや)って、喉を痛める方が続出したんです。それで結局、お咎め無しに」
「そうなの。ラッキーだったわね」
「はい。喉を痛めた方々からしたら、不謹慎なお話ですが…」
「でも結果オーライじゃない? 大したもんだよ」
「はい…良かったです、お役に立てて…。嬉しかった思い出の一つなんです」
 そう言って笑うエリアを見たら、アリスの気持ちもほぐれた。
 実のところ、彼女にはちょっと気(おく)れしていたのだ。
やっと歳の近い同性の子と会えて仲良くなれるかと思ったら、
相手は女の子というより、もうしっかりとした大人の女性のようで――アリスに言わせれば
彼女は、ぐうの音も出ぬほど『巫女らしい巫女』だったから。
 でも、こうして話せば、エリアも自分と変わらない普通の女の子に思えた。
「あっ、エリアさん。茎、こっち」
「あっ、すみません!」
 二人は顔を見合わせて、うふふと笑った。
「そういえば、エリアさんって歳いくつ? あたしは、この春で十三になったんだけど」
「十五になりました」
「じゃあ、あたしより二つお姉さんなのね」
「お姉さん…」
 エリアの白い顔に、さっと赤みが差した。アリスは、きょとんとする。
 …ああ、照れてる。嬉しい時の顔なんだ、と分かった。
なんだか、こちらまで嬉しくなる。それで勢いづき、アリスは言った。
「ねえ、エリアさん。あたしのお姉ちゃんになってよ」
「えっ、私がですか?」
「うん。ほら。うちの兄弟、男ばっかりでしょ。あたし、女の姉妹(きょうだい)が欲しかったのよねー…」
 それは、とても素敵な思いつきのように感じた。二人でこんな風に、いつもお喋りが出来たら、
きっと楽しい。
 ところが。
「勝手に決めるんじゃねーよ。迷惑だろ」
 声がしたので振り向くと、ムーンが救護室に入ってきたところだった。
 エリアの花のような笑顔が、心なしか萎(しぼ)む。アリスは内心で、この馬鹿、と文句を言った。
「ごめんなさい。そうですよね」
「えっ、いや。そうじゃなくって!」
 ムーンは慌てて弁解した。そのためか、声がひっくり返っている。
「分かった。あんた、自分がエリアさんより年下になるから嫌なんでしょ?」
 ムーンは、まもなく十五になる。
「そんなんじゃねーよ!『お前みたいなのが妹じゃ、エリアが迷惑する』って言ってんだ」
「その言葉そっくりそのまま、あんたにお返しするわ!」
 更に妹に言い返そうとしたムーンの声が、掠(かす)れた。コンコンと咳が出る。
「え、嘘。もしかして風邪?」
 『馬鹿は風邪をひかない』とは、迷信だったのか。
 その心の声を聞き取ったかのように、ムーンは「やかましい」とアリスの頭を小突いた。
「シャル。咳止めかなんか、ねえ?」
 ――咳止め。
 アリスは、エリアと顔を見合わせた。
「タイムリーだね。もう少し待って。…と、その前に、見せてごらん」
 船医はムーンを診察用の椅子に座らせ、口を開けるよう指示した。
「はい、声出して」
 あー…と出したムーンの声が、途切れる。船医は注意深く観察し、わずかに首を傾げた。
「ちょっと腫れてるかな。様子を見よう。…今、薬湯(やくとう)を作ってあげるよ」
「えー? やだよ。あれ、苦いんだもん」
「お子ちゃまねぇ」と、アリス。
「注射嫌いな奴に言われたかねーな」
「う…嫌いなものは嫌いなのよ。でも、弱みも時には魅力になるんだから。
…見てなさい。大人になったら、ぐうの音も出ないほど美人になってやるから!
あたし、中身も(そと)()も『いい女』目指してるもん」
「…いい女が聞いて呆れるぜ。
もともとの素材がそれなりなんだから、(そと)()はそれなりにしかなんねーよ。
せいぜいその性格を何とかできるように頑張んな」
「何よ、お子ちゃまムーン!」
 兄妹の口ゲンカに、エリアが小さく笑う。
 ムーンとアリスは、それぞれに反応した。
「ほれ見ろ、笑われたじゃねぇか」
「あんたのことよ。ねっ、お子ちゃまよね」
 エリアは言った。
「お気持ちは分かります。薬も注射も、出来れば避けたいですよね」
「では、そんな君たちのために、甘くしてしんぜよう」
「あっ、蜂蜜ですね!」
 エリアは、シャルの出す瓶の中身を見る前に、嬉しそうに言い当てた。
「ご名答。…じゃ、二人で作ったげて?」
 さっきまで医務机の上でコトコト煮ていた薬湯を、アリスがカップに注ぐ。
トロリとした緑色の液体は、立ち上る湯気も青臭く、いかにも効きそうだ。
 エリアが、アリスからカップを受け取ってスプーンで蜂蜜を加え、混ぜた。
 ふと気づくと、ムーンはエリアの一挙一動を見守ってしまっているのだった。
 白い手が、すっと素朴なカップを差し出した。
「どうぞ」
「う、うん」
 うっかり「ありがとう」を言い損ねた。更に、慌ててカップに口を付けたので火傷(やけど)をしそうになる。
「あちっ」
「気をつけて」
 出来たての薬湯は熱い。ムーンは、ふうふう吹いて、口に運んだ。
 口の中には、やまびこ草特有の苦みと共にエリアが足してくれた蜂蜜の甘さが広がる。
予想していたより美味しく感じた。
良い香りが鼻に抜ける。腫れぼったい喉に()みる気がする。
できるだけゆっくりと、彼は薬湯を飲み干した。
「頑張りましたね」
 空になったカップを引き取り、にっこりと笑うエリア。なんだか子供扱いされた気がして、
いつもだったら腹が立つのに、今日は気恥ずかしさの方が先に立った。
説明できないモヤモヤがあるが、嫌な気分かというと、そうでもない。
まるで、この薬の後味みたいに。
「よーし、アリス、エリア。やまびこ草はもうそれくらいでいいよ。三分の一は、こっちに加えて。
煮詰めて水薬にするから。それから…残りは干して保存するけど、
せっかくだから少しそのまま使って、私たちもお茶にしようか」
「やったあ! そうしましょ。ねっ、エリアさん」 
「はい」
 いそいそとお茶の準備を始めたアリスに、ふとエリアが言った。
「エリア、でいいですよ」
「え?」
「エリアって呼んでください。神殿では、みんなにそう呼ばれていましたから」
「そっ、そう?」なぜか上目遣いに彼女を見て、顔を赤らめるアリスだ。
彼女はためらいがちに、しかし嬉しそうにした。
「じゃあ……エリア?」
 すると、名を呼ばれたエリアの顔には、ふいに年相応の…無邪気さや驚きや、
心からの喜びのような表情が――すいっと走り抜けたのだった。
「はい」
 はにかんだ微笑(びしょう)を見て、ムーンは無意識に左手を握り込んだ。
「じゃあ、あたしのこともアリスって呼んで!
もう友だちのつもりだし、もし姉妹なら…敬語なんて要らないもの。
ムーンにも気ぃ遣うことないからね」
「わかりました。アリス」
「ほらぁ、敬語!」
「あっ」
 少女たちの軽やかな笑い声が広がった。
 ムーンは「勝手に決めるな」と言いたかったが、
「ムーンも一緒に、いかがですか?」
 するりと彼女の口から自分の名前が出ると、嬉しさと照れくささが ごったになって湧いてきた。
うん、と返事をした彼の舌には、さっき飲んだ薬湯の味がまだ残っている。それは甘くて、苦かった。

--- 試し読みは、ここまでです。続きは同人誌で!---



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第3巻:火は歌うへ

第5巻:天と礎へ

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